Sweetな彼、Bitterな彼女
Bitter version 4
土曜は二日酔いで潰れ、日曜はToDoリストの作成に費やした。
月曜に出社したわたしは、朝一番で雪柳課長に異動の返事をするつもりだった。
ところが、そんな時に限って、課長は朝から会議や打ち合わせで一日中不在。
ようやく捕まえた時には、すでに終業時刻を二時間も過ぎていた。
「課長! 先日の件でお話が……」
「黒田……もしかして、その話をするためだけに、待ってたのか? 明日でもよかっただろうに」
雪柳課長の言うとおり、この時間に返事をしたところで、実際に事態が動き出すのは明日になる。今日中に話してしまいたいというのは、わたしの都合でしかなかった。
「お疲れのところ、すみません。でも、早めにケリをつけてしまいたかったので……」
「時間も時間だし、メシ食いながら、聞かせてもらおうか。今日は、昼も食べられなかったから、飢え死にしそうなんだ」
断る理由もなかったので頷いたが、課長が向かった先は、いつものような大衆酒場ではなく、個室の小料理屋だった。
「あの、課長……ここ、お高いんじゃ?」
「ん? そうだな。だが、騒がしい場所で、するような話じゃないだろ。ほら、なんでも好きなものを頼め」
手渡されたメニューには、達筆な文字で美味しそうな酒の肴がずらりと並んでいる。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
言葉どおりに受け取って、真鱈の白子の天ぷら、ホタテの刺身、氷下魚の一夜干しなどを次々と頼む。
「見事に、酒の肴ばかりだな」
「そう言う課長は、見事にごはんものばかりですね。この時間に炭水化物を大量摂取するなんて、メタボの心配はしなくて大丈夫なんですか?」
雪柳課長は、握り寿司や蕎麦を頼んでいた。
「俺は、健康優良体だ! 空きっ腹に酒を飲んで、体調を崩して仕事に穴を開けるより、あとでジムに通い詰めるほうがいい」
三十半ばを過ぎてもお腹周りが引き締まっているのは、努力の賜物だと知り、尊敬した。
なんとかダイエットに挑戦しても、三日と続けられたためしのないわたしとは、大違いだ。
「おまえは、もう少し食べたほうがいい。痩せすぎだ」
「そんなことはありませんよ? 見えないところに結構、お肉ついてるんです」
「肝心なところ以外、ということか?」
「課長。それ、セクハラです」
「さっきのおまえのメタボ発言も、セクハラだろう!」
ひとしきり空腹を満たしたところで、本題に入る。
「先日の異動の件ですが……行きます」
「黒田なら、そう言ってくれると思っていた。来週頭の異動でスケジュールを組むぞ。急な引っ越しだから、おまかせパックでも何でも頼め。費用は、全額会社持ちだ」
予想どおりの容赦ない日程に、苦笑する。
「でも、まずは引っ越す先の部屋を探さないと」
「とりあえず、家具家電付きのウィークリーマンションを契約してあるから心配するな。急いで決めるとワケアリ物件を掴まされる。あっちへ行ってから、ゆっくり探せ」
さすが、出世街道まっしぐらのヤリ手だ。仕事が早い。が……。
「手配するの、早すぎません?」
「おまえが断るわけはないと、わかっていたからな」
「知ってたんですね? 蒼の転職のこと」
わたしに睨まれた雪柳課長は、あっさり頷いた。
「社内秘だったから、言えなかっただけだ。おまえは、当然聞いていると思っていたしな」
「あの夜、蒼の部屋へ行って、初めて知りました」
「それで……おまえの異動について、白崎は何て言っているんだ?」
「話していません。でも……話す必要はないかと。課長の言うとおり、先のことを考えるいい機会になりました」
雪柳課長は、「そうか」としんみりした口調で呟いた後、とんでもないことを言い出した。
「それなら、心機一転、新しい土地で頑張れるな? 骨を埋めるつもりで、新支店におまえのすべてを捧げてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください、課長っ!」
まさかの片道切符に慌てる。
そこまでの覚悟は、まだできていない。
「人生、どこでどんな出会いがあるかわからない。もしかしたら、むこうでいい男に出会って結婚するかもしれないだろう?」
「ないですよ、それは」
「結婚したくないのか?」
相手が雪柳課長でなければ、本気でセクハラで訴えるところだ。
雪柳課長の部下として働いたのは、たった一年。
それでも、信頼し、尊敬できる上司だと思っている。
だから、微妙な話題でも素直に答えることができた。
「そういうわけじゃないですけど……。ただ、第二の結婚ラッシュを過ぎてからは、いつしても大して変わらないって気持ちになっただけです」
「相手が変われば、考えも変わるかもしれないぞ?」
蒼と結婚し、家庭を築く未来を具体的に思い描いたことはなかった。
無意識のうちに、そんな未来はあり得ないと思っていたのかもしれない。
「かもしれません。でも、当分……そんな気にはなれないと思います。この年で、新しい人間関係を一から築くのって、けっこう面倒じゃないですか」
「まあな……だったら」
雪柳課長とまともに目が合う。
不覚にもドキリとした瞬間、思いがけない言葉が鼓膜を震わせた。
「俺と結婚するってのは、どうだ?」