Sweetな彼、Bitterな彼女
翌日退院したわたしは、ホテルへ舞い戻り、取り敢えず滞在を一週間ほど延期した。
出社して勤務することは雪柳課長に禁止されたものの、ホテルの部屋でやっつけ仕事気味に終わらせた引き継ぎの資料を手直ししたり、新支店のスタッフから届いた進捗状況を確認したりして過ごした。
喘息についても、専門外来のある病院で診察を受け、薬のことや普段の生活のことなど、事細かな指導を受け、異動先の会社近くにある病院へ紹介状を用意してもらった。
煙草は、もちろん吸っていない。
二度とあんな目に遭いたくなかったので、退院したその日のうちに、潔くライターと携帯灰皿、未開封の煙草もすべて処分した。
禁煙外来へ行くことも勧められたが、恐ろしい思いをしたせいか、いまのところ禁断症状は起きていない。
結局、わたしの風邪が完治し、雪柳課長から旅立ちの許可が下りたのは、喘息の発作を起こしてから一週間後のことだった。
*****
「それで……やっぱり、蒼くんには何も言わないまま行くの?」
詩子の問いに、頷く。
平日にもかかわらず、詩子はわざわざ有休を取って、空港までわたしを見送りに来てくれた。
「蒼からも、連絡はないしね。引っ越しと転職の準備で忙しいだろうから」
あんな別れ方をしたのだ。
もう一度連絡を取ろうとは、思わないだろう。
「あ、そうだ。詩子に頼みがあったんだ」
スマホで、仕事や手続き関係のタスクを確認していたわたしは、緑川くんから合コンの設定をお願いされていたことを思い出した。
「何よ?」
「合コン、設定してあげてほしい子がいるの。蒼の幼馴染なんだけど、肉食じゃない女子を紹介してあげてほしいのよ」
「他人の恋愛を応援している場合じゃないでしょう?」
「幸せになってほしいの。すごくいい子なんだから」
「ふうん? で、イケメンなの?」
「そうね。蒼には劣るけど」
「蒼くんが比較対象だと、ぜんぜん参考にならないんだけど」
「……しいて言えば、子犬?」
「人間ですらないじゃないのよ!」
「とにかく、いい子を紹介してね? 詩子みたいじゃない子」
「何気に、貶してくるわね。わかったわよ、任せといて。しっかり、しつけてあげるから」
「詩子、やめてね? 緑川くんは、そういう子じゃないから」
「大丈夫よ。でも、紅。蒼くんのことは放置でいいかもしれないけれど、雪柳課長が、誰かほかの人のものになってもいいの?」
「課長の気持ちをいますぐ受け入れられないのは、あくまでもわたしのせいだし。そうなったら、それだけの縁だったということでしょ」
「もっと狡くなっても、いいと思うけど?」
「そうなろうと思っても、なれない」
「まあ、紅らしいといえば、紅らしいわね。暖かくなったら遊びに行くから、それまで戻って来ないでね?」
「ちょっとは寂しいとか言ってよ!」
「寂しいって気持ちは、あとから気づくものでしょ? とにかく、がんばって蒼くんを忘れなさい。時効までに」
あの夜、蒼との間に起きたことは、誰にも話していなかった。
「……うん」
「あ。さっそくなんだけど、あっちの空港限定のお菓子でほしいものがあるのよ。詳しい情報は、さっきメッセージ送っておいたから。忘れずに買ってから、空港を出てね?」
「…………」
薄情で現金な詩子と別れ、搭乗口へ向かいながら、スマホを確かめる。
蒼からのメッセージも、着信も、ない。
未練を断ち切るように電源を切った拍子に、していることすら忘れる程、馴染んでいた薬指の指輪に気づいた。
(……これこそ、処分すべきものだったのに)
指輪を引き抜き、壁際に置かれたゴミ箱へ捨てようとした途端、涙が溢れた。
恋に、溺れたくなかった。
別れたくないと思うような恋は、したくなかった。
なのに、いま感じているのは「後悔」だ。
蒼がくれたものを大事にすると言いながら、大事にしていなかった。
何よりも大事にすべきだった、蒼の気持ちをないがしろにしていた。
素直に、ありのままの気持ちを伝えられなかった。
――伝えようとしなかった。
もう一度、やり直すことはできない。
蒼は別の相手を選んでいる。
それでも、自分の中で終わりにするまで、猶予が欲しかった。
わたしは、いまも蒼が好きだった。
(最初に決めたように……あと二か月と少しだけ、時効まで待とう。蒼がくれたものを処分するのは……それからでもいい)
握りしめた指輪は、無造作にジャケットのポケットへしまいこんだ。
あの日、指輪をくれた蒼がそうしていたように……。