普通の幸せ
パジャマからスーツに着替えて、彼女に声をかけようとキッチンをのぞいた。
夕飯を作ってくれていたのに。これから一緒に食べるところだったのに。
会社に戻らなきゃいけなくなった、と、言いづらい。
遠慮がちに、彼女の背中に話しかける。
「あの、さ」
「あっ裕さん、これ」
彼女は、笑顔で巾着袋を差し出した。
「おにぎりにしたよ」
はい、と袋を渡してくる。
「最上さんの分も入ってるからね」
言葉の通り、巾着袋はおにぎり1人分にしては重かった。
最上さん、というのは電話してきた後輩だ。よく俺の話に出てくるので、顔は知らなくても知り合いのように名前を呼ぶ。
かかってきた電話の回数と、話していた内容から、俺がもう一度会社に行かなければならないと察してくれたらしい。
予定外のおにぎりを急いで作ったから、キッチンはぐちゃぐちゃになっている。
それを見たら、彼女への感謝と、愛おしさが、一気にあふれてきた。
「最上にはやらない」
「え、なんで?」
「俺が全部食べる」
「えーお腹パンパンになっちゃうよ」
冗談だと思っているらしい。彼女は苦笑いで、ボウルや皿を水に浸けて、そして、俺を見上げた。
……可愛い。
思わず抱きしめた。
彼女は一瞬驚いたように体をすくめたけど、すぐに俺の背中に手を回して、ゆっくりなでてくれる。
「傘、持ってってね」
「うん」
「おにぎり、最上さんにもあげてね」
「……」
「もーなんでよ。可哀想じゃない、お腹空いてるよ、きっと」
「……他のヤツにはやらない」
彼女の手が止まった。
俺は、ちょっと力を緩めて、彼女の顔を見ようとする。
彼女は、下を向いてしまった。
「……実希」
「てっ、照れちゃうなあ、あはは……」
上げた顔が赤くなってて。
可愛くて、キスをした。
ちょっと長くしていたら、やめられなくなりそうになったので、唇は離して、ギュウっと抱きしめた。
そこで。
ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。
無視して、そのまま彼女を抱きしめ続ける。
「ねえ、鳴ってるよ」
「どうせ会社だよ」
「無視しちゃ駄目だよ」
「後でかけなおす」
しょうがないなあ、というため息をついて、彼女はまた俺の背中をなで始めた。
気持ち良くて、会社に行きたくなくなる。
「早く行って、早く帰ってきて」
その後、言葉を飲み込んだ気がした。
『淋しいから』
背中をギュッと抱きしめた彼女の手が、そう言っているような気がした。
もう一度、唇とほっぺたに軽くキスをした。
「……行く」
かなり名残惜しかったけど、彼女を離して玄関に向かった。