"さよなら"には早すぎて、"はじめまして"には遅すぎる
「こんなことを言ったらあの人が悲しむかもしれないけど、私は夫より我が子の方が愛おしいのよ。もちろん、夫も愛しているけど。……マルちゃんが居なくなったらどうしたらいいのかしらね」
もう十八年も生きているマルちゃんがこれから先、平松が寿命を迎えるまで一緒に居られる確率は限りなくゼロに近いだろう。
夫よりも愛しているという彼女にとっての子供が居なくなったらなんて、俺には到底想像もつかないような悲しみだろう。
彼女の生きがいがマルちゃんだとしたら、マルちゃんが居ない世界でどう生きればいいのだろう。
もし、俺自身がこの先の人生で大切な人に出会えたとして、その人がいない世界でどうやって生きていくのだろうか。
考えるのに必死で手から買い物袋がカサリと音を立てて地面に落ち、中から今日買ったニンジンやジャガイモの種の入った小袋が飛び出てきた。
その時、俺は思った。
人が百歳生きるなら俺はまだ人生の五分の一程度しか生きていないただの大学生で、俺の倍以上の年月を過ごしてきた平松に何か気の利いたことが言えるはずは無いのだ。
それも親の気持ちもまだ分からないガキで、大切な人との別れを経験したこともない俺が何を言ったって意味はない。
俺は買い物袋から飛び出た種の袋を拾い、土埃を払いながら平松にジャガイモとニンジンのどちらが好きかを尋ねた。
彼女は少し悩んでニンジンだと答えたのでその種を渡した。