"さよなら"には早すぎて、"はじめまして"には遅すぎる
けれど、彼女は振り返った。
絵里の姿を見つけた彼女は動揺しているようには見えなかったが、さっきまで男に向けていた可愛らしい笑みはスッと無くなった。
代わりに、ほんの少し口角を上げ、妖艶に微笑むのだった。
「どうした?」とでも言われたのか、彼女は首をフルフルと横に振り、男の腕に纏わり付くように腕を絡ませて近くの建物の中へと消えて行った。
「知り合い?」
「だったら気まず〜い!」
「だってあれ、ホテルじゃん!ラブがつく方の!」
本当に最後の希望を託すならあの建物がそうでないことを祈りたかったが、それすらも打ち砕かれた。
(気まずいなんてもんじゃない。)
せめて叫んだ名前に振り返って欲しくなかった。
他人の空似だと信じたかった。
だけど彼女は振り返り、それどころか笑みさえ向けてきた。悪びれた様子はなく、堂々としていた。
酔ってもいないのに頭が痛い。さっきまでの眠気もとっくに何処かへ行ってしまった。
雨雲ひとつないけれど、街灯で星一つ見えない空の下、明るい夜の街に「莉乃ちゃん!」と叫んだ絵里の声はとっくに消えてしまった。
それなのに、ここにいない、ここにいるべき男の叫びが聞こえるようだった。
これが夢であることが絵里の最後の希望だった。