花風
口髭を備えた少し渋めの印象を持つ男の人が可愛らしいクマの着ぐるみに身を包むことなど誰が想像出来ただろうか。

『やっぱり……夢じゃないんだ……』

ベッドの下に落ちた契約書を拾い上げ、皺の出来た紙を茶封筒に入れて引き出しに仕舞い込み、大きな溜息を吐き出す。

枕元に佇む携帯を手にし、当ても無くアドレスを辿って指を止める。

画面の中で映える成人式の日に友達と撮った写真、右上に記された時計に目を奪われる間に身体が自然に動き出す。

部屋の片隅に置かれた姿見を覗きながら身支度を整え、寝癖を直すのも早々に部屋を飛び出した。

だがしかし、そこは最早モヌケの殻。

若干の嫌悪感を抱いたことに後悔しながらリビングを後にし、マンションを抜けて会社への道程を急いで歩いて行く。

人で溢れる忙しいホームを潜り抜けて詰め込まれた満員電車に揺られ、息苦しいドアの前で窓の外に視線を放り投げる。

立ち並ぶビルの群れに広がる青空、点々とした電柱に張り巡らされた線が五線譜のように見えた。

狭い中でバッグからイヤフォンを取り出して携帯に繋ぎ、音楽アプリを開いて聴き慣れた曲を再生する。

何処か懐かしさを感じるギターの音と切なげな歌詞が遠い故郷を思い出させた。

まだ入社式を終えたばかりで帰りたいと願うには気が早く、そんな自分を少しだけ笑いながら流れ出す人並みに乗って会社へと歩き出して行く。


初日は会社の規則についてビデオや講習で学び、休憩を挟んだ午後からの社内案内や仕事内容を頭に刻む中、ふとした溜息を吐く暇も無く出社一日目は瞬く間に終わっていた。

身体は疲れているのに帰りの電車で考え事をしてしまい、この先どうすれば良いのかも分からず、重い思考のまま家路に着いてリビングへ足を運ぶと、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれいていた。


『今朝はごめんなさい』と冒頭に申し訳なさそうな文字が綴られ、その後に部屋で暮らす上でのルールのような箇条書きが記されている。


1.家事は別々な事
2.プライベートに干渉しない事
3.挨拶をする事
4.何かあったら報連相をする事
5.お互いに恋人が出来たら部屋を出る事


なんて几帳面で真面目な人なんだろうと、それを眺めて頭を下げるしかなかった。
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