恋人のフリはもう嫌です

 その距離はどんどん詰められ、近づいてくる彼に戸惑う。
 思わず彼の胸に手を当て、押し返すように制止する。

「あの、近い、です」

「うん。キスしようと思って」

 当たり前のように言われ、顔を俯かせる。

「嫌?」

「嫌では、ないです」

 思わぬ本音がこぼれ、彼を笑わせる。

「それなら顔上げて」

 そっと顎に手を添えられ、顔を持ち上げられる。
 優しく唇が重ねられると、一度離され、再び重ねられた。

 何度か角度を変え、重ねた唇。
 重ねられる度に、胸が締め付けられる。

 何度目かでやっと解放され、彼の胸元に不時着した。
 頭がぼんやりして、顔が熱い。

 体に腕を回され、抱き寄せられた頭上で彼は呟くように囁いた。

「明日も仕事だ。今日はもう送るよ」

「でも」

 反論しようとした言葉は、続けられなかった。

 有無を言わせない彼の雰囲気に気圧されて、口を噤む。

「帰る前にお手洗い、済ませて来たら」

 ここで「帰りたくないです」とかわいらしい声で甘えられるくらいの技量が、自分に備わっていれば。

 肝心なところで口はだんまりを決め込み、彼の意向に従った。
< 81 / 228 >

この作品をシェア

pagetop