万年筆
── 初めて手が触れた、その時ではないかと思うのです。
切れ長の目がさらにすっと細くなる。彼女は僕の靴のつま先を見ていた。ように見えた。そして目を閉じた。しばらく目を閉じていた。眠ってしまったのかと思うくらいの長い時間が過ぎた。僕はもう次の質問を思い出すことができなかった。
* * *
万年筆を、借りました。彼はまだ高校生でしたが、その万年筆を彼は彼のおじいさまから高校入学のお祝いにもらったと言っていました。訊ねたのです、万年筆を持ち歩いているなんて珍しいわね、と。今はもう珍しいでしょうけれど、キャップをねじるタイプの万年筆でした。私の恩師もその捻るキャップの万年筆を使っていたことをその時に思い出しました。ありがとう、とその万年筆を返したとき、彼の手に、触れたのです。
彼が、少しびっくりしたみたいに震えたのが分かりました。そのことに私は驚いてしまって、自分が何か不用意にもはしたないことをしたような気持ちが致しました。まだ穢れていないものを初めて見たようにも感じました。ただ私は、もう十分に大人になっていましたから、なにごともなかったようにもう一度彼に「ありがとう」と言ってその場を離れました。
それからもちろん顔を合わせることは何度もありました。それこそ学校の廊下でも、校庭にいる彼を見かけることもありました。休み時間に図書館で見かけることもありました。でもそれきりであったのです。誓って。
卒業式の日に、彼の卒業の年のことですけれども、毎年そうしているようにその年も私は袴をつけました。白い足袋を下ろしました。卒業生達が在校生が作るアーチを体育館の外へと歩いて行くのを見守りました。アーチをくぐりきった彼が、体育館の中を振り向いて何かを、誰かを探していました。そして私のほうを振り向いて──。 ──振り向いたのを見ました。そして彼は体育館を出て行きました。
桜の蕾がそろそろ膨らみかけていたように思います。三月の中頃ですから、そのような時期だったと思います。けれどもなぜか私の記憶の中でその場面は桜の花びらが舞い散る中の出来事だったように思い出されます。在校生や学級担任の先生達の中で華やかに騒いでいる卒業生達。その群れの中から突然沸いて出てきたみたいに彼は私の前に立ちました。そして、制服のポケットから小さな箱を取り出しました。
「ペンは、目上の人に上げるものじゃないんだって、言われたんだ。」
と彼は言いました。一瞬は突然何を言っているのだろうと思いましたがその小さな箱にきっとペンが入っていてそれが私への贈り物なのだろうということにすぐ気がつきました。受け取っていいのかどうか、少し考えました。けれど差し出している彼の手が震えているのを見ると、私はそれを受け取らずにはいられませんでした。
「けれど、どうしても、僕はこれを貴女に使って欲しくて。」
私はその箱に掛かった赤いリボンを摘んで
「開けて見てもいい?」
と尋ねました。彼は俯いたまま頷きました。リボンを解いて、丁寧に掛けられた包装紙を取って、スリーブの中の小さな箱を開けました。紅赤色の万年筆でした。もしやと思い手にとってキャップを確認しました。捻るキャップの万年筆でした。真新しいペン先に陽の光が当たってとても綺麗でした。ペンを箱に戻し包装紙に包みなおうそうかどうしようか迷っていた時、彼が私をまっすぐに見つめていることに気づきました。ありがとう、大事にするわ、そう言おうとした一瞬前に彼が、
「この万年筆をいつも持っていてくれたら、もう誰かにペンを貸してって言わないですむよ」
といいました。その言葉に重ねられていた想いが私にはちゃんと伝わりました。ペンを貸してと言ったから、そして借りたペンを返して指先がちょっと触れたからといって、そうそう恋に落ちるということはあるものではありませんけれど、彼が私にそう言ったその気持ちはまだ少年であった彼の精一杯男らしい執着の魅せ方であったと今は思います。
「そうね。」
と私は一言だけ申しました。彼は少し眉を顰めて、伝わったのかどうか不安に思ったような表情をしました。私は万年筆をもう一度箱から出して、それを胸元に挿しました。
少年である彼の時間の過ぎ方と私の時間の過ぎ方は違う。私はもうそのことを十分に知っていました。けれど、そのペンを大事に持っていても罰は当たりませんもの。毎日毎日忘れずに、肌身離さず持っていても、誰に咎められることもないし、誰かにペンを貸してといって迷惑を掛けることもないのですから。いつかその万年筆が駄目になってしまう頃には、もう万年筆を持っている意味なんてただの習慣でしかなくなって彼の名前も顔ももう忘れてしまうだろうと、私でなくたって想像できたことだと思います。
* * *
それから、17年経ち私は転職して市立の図書館で働いていました。朝は6時に起き、お弁当を作って朝ごはんはパンを焼いて一人分のコーヒーを入れて朝の情報番組を見ながら食べます。いつもだいたい同じような服を選んで着てお弁当を包んで家を出るのは7時45分です。毎日、毎日、その繰り返しです。図書館は月曜日がお休みですがその日は図書の整理日ですので図書館はお休みでも私たちは出勤します。私たちのお休みは順番に週に二日です。休みの日は、洗濯物をしたり部屋を片付けたり一人で出かけたりします。友達もいましたけれど、その頃には結婚して子どももひとりふたり育てている彼女達とも生活のリズムが違っていて、なんとなく会わなくなっていました。
図書館はいいですよ。若い人も老いた人もいる。青春時代に一瞬にして戻るような錯覚に陥ったり、まるで以前の職場にいるような気持ちになったり、なぜかもう退職した自分がまだ出遭っていない新しい本を探しているような気がしたりするようなことさえあります。
それは、初夏だったように記憶しています。高い天井窓から差し込む陽射しがそろそろ強くなる頃。窓の外の木々が青々と眩しい頃。ブックカートの返却本がある程度溜まっていて私はそれらを書棚へ戻しに行こうとしていました。カウンターを出る跳ね扉の横は、カード忘れの人やカードを作る人が書類を書き込むスペースになっています。そこにその時間には珍しくスーツを着た男性が並んでいるのが見えました。私は、ブックカートを押す手を止めて、カウンターの下に手を伸ばしながら「カードをお忘れですか、新しく作りますか?」とその男性に尋ねました。その男性はすぐには答えなかったので、私は声が小さすぎたかなともう一度少しトーンを上げてゆっくり目に同じことをたずねました。彼は「新しく作ります」と答えました。私は新規作成用の申し込み用紙を一枚カウンターの上に乗せて「この地域にお住まいか、勤務先がこの地域でしょうか、本日は身分証明書をお持ちですか?」と言い慣れた台詞を一息に言いました。それと同時にもう癖になっている通りに、カウンターの横においてあるペン立てを手で指しました。
「高校の教師です」
とその男性は言って胸ポケットから証明書を出してカウンターの上に出しました。そして
「ペンをお借りできますか?」
と。
身分証明書の写真の男性に見覚えがありました。名前も。そのときになってやっと私はカウンターの前にいる男性を見ました。彼でした。私が覚えているよりもずっと大人びた一人の男性でした。私は図書館スタッフが身に着けている紺色のブルゾンの内ポケットに入れていた万年筆を出して彼に渡しました。彼の手は私の記憶よりもほんの少しだけごつごつとしているように見えました。そして、しっかりとした文字で名前を書き入れて、勤務先を書き入れて、自宅の住所を書き入れて、万年筆のキャップを捻って戻し、その私の紅赤色の万年筆を少しの間両手で持って見つめていました。
* * *
「これが全部です。」
と彼女は言った。僕はまだ次の質問を思いつかなかった。
「これで、すべて」
と、彼女はもう一度少し言葉を変えて言った。
「すべて、と言うと…。その後、彼とは?」
僕はやっと沸いた疑問を投げかけた。彼女はゆっくりと首を振った。
「会わなかった?」
彼女は黙っていた。
「それはつまり、図書館に、彼はもう来なかった、ということ?」
彼女はやはり黙っていた。それからゆっくりと口を開いた。唇が震えていた。
「ひき逃げだったそうです。」
僕はその時生まれて初めて”息をのむ”という経験をした。少なくとも"息をのむ"ということがどういうことなのか分かった瞬間だった。
「数年前に、知りました。本当に偶然だったのです。新聞や雑誌などの古いデータを…。奇跡のように、その名を、見つけたのです。」
彼女はそう言ってタートルネックの衿に手をやった。明るいグレーのモヘヤに窓からの光がうっすらとベールをかぶったように反射していた。彼女は目を伏せた。僕の靴のつま先を見ているように見えた。まつげが濃く、なった。
終わり
切れ長の目がさらにすっと細くなる。彼女は僕の靴のつま先を見ていた。ように見えた。そして目を閉じた。しばらく目を閉じていた。眠ってしまったのかと思うくらいの長い時間が過ぎた。僕はもう次の質問を思い出すことができなかった。
* * *
万年筆を、借りました。彼はまだ高校生でしたが、その万年筆を彼は彼のおじいさまから高校入学のお祝いにもらったと言っていました。訊ねたのです、万年筆を持ち歩いているなんて珍しいわね、と。今はもう珍しいでしょうけれど、キャップをねじるタイプの万年筆でした。私の恩師もその捻るキャップの万年筆を使っていたことをその時に思い出しました。ありがとう、とその万年筆を返したとき、彼の手に、触れたのです。
彼が、少しびっくりしたみたいに震えたのが分かりました。そのことに私は驚いてしまって、自分が何か不用意にもはしたないことをしたような気持ちが致しました。まだ穢れていないものを初めて見たようにも感じました。ただ私は、もう十分に大人になっていましたから、なにごともなかったようにもう一度彼に「ありがとう」と言ってその場を離れました。
それからもちろん顔を合わせることは何度もありました。それこそ学校の廊下でも、校庭にいる彼を見かけることもありました。休み時間に図書館で見かけることもありました。でもそれきりであったのです。誓って。
卒業式の日に、彼の卒業の年のことですけれども、毎年そうしているようにその年も私は袴をつけました。白い足袋を下ろしました。卒業生達が在校生が作るアーチを体育館の外へと歩いて行くのを見守りました。アーチをくぐりきった彼が、体育館の中を振り向いて何かを、誰かを探していました。そして私のほうを振り向いて──。 ──振り向いたのを見ました。そして彼は体育館を出て行きました。
桜の蕾がそろそろ膨らみかけていたように思います。三月の中頃ですから、そのような時期だったと思います。けれどもなぜか私の記憶の中でその場面は桜の花びらが舞い散る中の出来事だったように思い出されます。在校生や学級担任の先生達の中で華やかに騒いでいる卒業生達。その群れの中から突然沸いて出てきたみたいに彼は私の前に立ちました。そして、制服のポケットから小さな箱を取り出しました。
「ペンは、目上の人に上げるものじゃないんだって、言われたんだ。」
と彼は言いました。一瞬は突然何を言っているのだろうと思いましたがその小さな箱にきっとペンが入っていてそれが私への贈り物なのだろうということにすぐ気がつきました。受け取っていいのかどうか、少し考えました。けれど差し出している彼の手が震えているのを見ると、私はそれを受け取らずにはいられませんでした。
「けれど、どうしても、僕はこれを貴女に使って欲しくて。」
私はその箱に掛かった赤いリボンを摘んで
「開けて見てもいい?」
と尋ねました。彼は俯いたまま頷きました。リボンを解いて、丁寧に掛けられた包装紙を取って、スリーブの中の小さな箱を開けました。紅赤色の万年筆でした。もしやと思い手にとってキャップを確認しました。捻るキャップの万年筆でした。真新しいペン先に陽の光が当たってとても綺麗でした。ペンを箱に戻し包装紙に包みなおうそうかどうしようか迷っていた時、彼が私をまっすぐに見つめていることに気づきました。ありがとう、大事にするわ、そう言おうとした一瞬前に彼が、
「この万年筆をいつも持っていてくれたら、もう誰かにペンを貸してって言わないですむよ」
といいました。その言葉に重ねられていた想いが私にはちゃんと伝わりました。ペンを貸してと言ったから、そして借りたペンを返して指先がちょっと触れたからといって、そうそう恋に落ちるということはあるものではありませんけれど、彼が私にそう言ったその気持ちはまだ少年であった彼の精一杯男らしい執着の魅せ方であったと今は思います。
「そうね。」
と私は一言だけ申しました。彼は少し眉を顰めて、伝わったのかどうか不安に思ったような表情をしました。私は万年筆をもう一度箱から出して、それを胸元に挿しました。
少年である彼の時間の過ぎ方と私の時間の過ぎ方は違う。私はもうそのことを十分に知っていました。けれど、そのペンを大事に持っていても罰は当たりませんもの。毎日毎日忘れずに、肌身離さず持っていても、誰に咎められることもないし、誰かにペンを貸してといって迷惑を掛けることもないのですから。いつかその万年筆が駄目になってしまう頃には、もう万年筆を持っている意味なんてただの習慣でしかなくなって彼の名前も顔ももう忘れてしまうだろうと、私でなくたって想像できたことだと思います。
* * *
それから、17年経ち私は転職して市立の図書館で働いていました。朝は6時に起き、お弁当を作って朝ごはんはパンを焼いて一人分のコーヒーを入れて朝の情報番組を見ながら食べます。いつもだいたい同じような服を選んで着てお弁当を包んで家を出るのは7時45分です。毎日、毎日、その繰り返しです。図書館は月曜日がお休みですがその日は図書の整理日ですので図書館はお休みでも私たちは出勤します。私たちのお休みは順番に週に二日です。休みの日は、洗濯物をしたり部屋を片付けたり一人で出かけたりします。友達もいましたけれど、その頃には結婚して子どももひとりふたり育てている彼女達とも生活のリズムが違っていて、なんとなく会わなくなっていました。
図書館はいいですよ。若い人も老いた人もいる。青春時代に一瞬にして戻るような錯覚に陥ったり、まるで以前の職場にいるような気持ちになったり、なぜかもう退職した自分がまだ出遭っていない新しい本を探しているような気がしたりするようなことさえあります。
それは、初夏だったように記憶しています。高い天井窓から差し込む陽射しがそろそろ強くなる頃。窓の外の木々が青々と眩しい頃。ブックカートの返却本がある程度溜まっていて私はそれらを書棚へ戻しに行こうとしていました。カウンターを出る跳ね扉の横は、カード忘れの人やカードを作る人が書類を書き込むスペースになっています。そこにその時間には珍しくスーツを着た男性が並んでいるのが見えました。私は、ブックカートを押す手を止めて、カウンターの下に手を伸ばしながら「カードをお忘れですか、新しく作りますか?」とその男性に尋ねました。その男性はすぐには答えなかったので、私は声が小さすぎたかなともう一度少しトーンを上げてゆっくり目に同じことをたずねました。彼は「新しく作ります」と答えました。私は新規作成用の申し込み用紙を一枚カウンターの上に乗せて「この地域にお住まいか、勤務先がこの地域でしょうか、本日は身分証明書をお持ちですか?」と言い慣れた台詞を一息に言いました。それと同時にもう癖になっている通りに、カウンターの横においてあるペン立てを手で指しました。
「高校の教師です」
とその男性は言って胸ポケットから証明書を出してカウンターの上に出しました。そして
「ペンをお借りできますか?」
と。
身分証明書の写真の男性に見覚えがありました。名前も。そのときになってやっと私はカウンターの前にいる男性を見ました。彼でした。私が覚えているよりもずっと大人びた一人の男性でした。私は図書館スタッフが身に着けている紺色のブルゾンの内ポケットに入れていた万年筆を出して彼に渡しました。彼の手は私の記憶よりもほんの少しだけごつごつとしているように見えました。そして、しっかりとした文字で名前を書き入れて、勤務先を書き入れて、自宅の住所を書き入れて、万年筆のキャップを捻って戻し、その私の紅赤色の万年筆を少しの間両手で持って見つめていました。
* * *
「これが全部です。」
と彼女は言った。僕はまだ次の質問を思いつかなかった。
「これで、すべて」
と、彼女はもう一度少し言葉を変えて言った。
「すべて、と言うと…。その後、彼とは?」
僕はやっと沸いた疑問を投げかけた。彼女はゆっくりと首を振った。
「会わなかった?」
彼女は黙っていた。
「それはつまり、図書館に、彼はもう来なかった、ということ?」
彼女はやはり黙っていた。それからゆっくりと口を開いた。唇が震えていた。
「ひき逃げだったそうです。」
僕はその時生まれて初めて”息をのむ”という経験をした。少なくとも"息をのむ"ということがどういうことなのか分かった瞬間だった。
「数年前に、知りました。本当に偶然だったのです。新聞や雑誌などの古いデータを…。奇跡のように、その名を、見つけたのです。」
彼女はそう言ってタートルネックの衿に手をやった。明るいグレーのモヘヤに窓からの光がうっすらとベールをかぶったように反射していた。彼女は目を伏せた。僕の靴のつま先を見ているように見えた。まつげが濃く、なった。
終わり