Birthday Cake
4.Heart of Gold

ルカが「妊娠した」と告げてから、後藤の態度は急変した。


産婦人科帰りのルカが、家に帰ると、リビングでは、仕事終わりの後藤が、ぐったりとしている。

「4ヶ月目を過ぎてるから、一度産んでから、殺さなきゃならないんだって・・」

後藤は、顔を曇らせたまま、黙ってルカの話を聞いている。

ルカは、産婦人科で言われた事を、ひとしきり話し終えると、重くなった空気を察して、話題を変えた。

「あのね、今日、病院に行く途中にね、野良猫がいたの。その野良猫がね、ずっと・・」

後藤は、「あ?」と、床を見つめたまま、声を発した。

「それで、その野良猫がね、ずっと道に捨ててある、ゴミ袋を漁ってて・・」と、ルカが続けた話を、「なあ、黙ってくれねえか?」と後藤は、遮った。


「俺は新しい仕事を探してんだ。
・・ただでさえ、寝る暇もねえのに。
中絶の費用を稼ぐために、シフトも増やしてんだ。そんなクソみてえな野良猫の話なんか、どうでもいいだろ?」

ルカは、言葉を失う。二人の間に流れる沈黙。
後藤が、イライラした時にだけ吸うタバコ。
灰皿に落ちた、灰が砕け散る。
あんな風に、レンは、車がブロック併に衝突した時、アスファルトに投げ出され、体内の骨は粉々になって死んだ。
ルカは、その現場写真を、警察から見せられた時、せめて苦しまずに、逝った事を願った。

「・・すまん。部屋に行くわ」

シオンが起こした事故があって以来、ルカだけが残された、実家の団地。
808号室には、今では別の家族が住んでる。
家族の思い出が染み付いたあの家に、ルカは、もう帰りたくないと思った。

あれからシオンに、一度も会っていない。
刑務所の面会にも、一度も行く気がしなかった。
二度と会いたくないと、ルカは思った。
兄弟を二人同時に、失ったような感覚。
出来るだけ、シオンの事は、考えないように努めた。
しかし、排除しようとすればする程、無意識のうちに、シオンの事を考えている自分が居る事に気付いた。
記憶は、入れるのは楽だけど、消すのが困難な点で、タトゥーと同じだなと、ルカは、思った。

あまりにも辛い出来事は、自動消去される機能が付いてるのか、ルカはあの頃の事を思い出そうとしても、何一つ思い出せなかった。
警察から事情聴取された記憶だけは、今でも鮮明に残っている。

自分は、もしかしたら、レンを助けられたかも知れないという罪悪感だけが、ルカの中に残った。
あの日、自分が家に居て、レンを行かせなければ、レンは死なずに済んだ。
ああなってしまう前に、シオンを止めるタイミングは、今まで何度もあった。
それなのに、何もせずに、見過ごし続けていた。

自暴自棄になり、コンビニで買った酒を胃の中に流し込んだ。
酔いが回ると、ルカは、道端で泣きながら叫んで、そのまま嘔吐した。
何も食べていないから、逆流したのは、胃液のみだった。

そんなルカに声をかけて来たのが、当時18歳の後藤だった。
出会ったその日から、ルカは、後藤の家に転がり込んだ。
二日酔いの朝は、後藤の甲高い金属音のような声が頭の中に響いた。

「一人っ子だったの」
家族の話を聞かれるたびに、ルカは、後藤にそう偽った。
誰にも言えない過去は、心の金庫に閉じ込めるみたいにして、隠し通した。

毎日、朝食を食べ終えた後藤は、そそくさと、バイト先の建築現場へ向かう。
一人で部屋に残されたルカは、静まり返った、世界の音を聞いた。

後藤は、まだ18歳なのに、30代のような風格を感じる。
顔は、日本人離れした鼻筋の通ったピーナッツみたいな顔立ちをしていて、学生の頃、暴走族をしていた頃の雰囲気が、今もどこと無く残っている。

出会ったばかりの頃、ボクサーを目指しているという後藤に、「何でボクサーになろうと思ったの?」と、ルカが尋ねると、一本のDVDを見せられた。

「この人みたいに、なりたいって思ったんだ」

後藤が指差した、安城健吾という名前のボクサーは、その当時の世界チャンピオンに、ボコボコにされては、何度もマットに沈められていた。

まるで、モグラ叩きのモグラ。
殴られるために、立ち上がっているようにしか見えなかった。
その痛ましい惨劇に、「もう、やめときゃいいのに」と、ルカは思った。
それでも、リング上のモグラは穴から顔を出し続けて、試合終了のゴングが鳴る頃、安城健吾の顔面は、シルバーのスプーンの裏側に映った時の顔のように、大きく腫れまくっていた。

後藤の金髪の髪型は、その安城健吾を真似しているんだと、その時、ルカは知った。

毎日ボクシングジムに寄ってから帰って来る、後藤の手からはいつも、ボクシンググローブの臭いがした。
帰宅すると、すぐにその手を、ルカが着ていたニットのワンピースの下から入れて、胸を揉んだ。
その後は、いつものように、前戯もなく、いきなり挿入して来て、ルカは、まるで物のように扱われているみたいで、それを苦痛に感じていた。
後藤の体からは、汗と小便が入り混じった、硫黄のような臭いがする。
終わると、後藤は、すぐにズボンを履いた。
再び着たシャツからは、汗の臭いがした。

ルカがゆっくりと、立ち上がると、ゴムも付けずに中に出された、生温かい精液が、太ももをつたって、床に垂れた。
さっきまで、寝転んでいたベッドのシーツが湿っている。
後藤は、すぐにイビキをかいて眠ってる。
何だか、心が鉛になっていく感じがした。
ルカは、半分口を開けながら寝てる後藤の横に、寄り添って眠る。
彼の肉体は、インナーマッスルが硬くて、まるでイナズマを抱いて眠ってるみたいに感じる。

ルカは、すぐに後藤の子を妊娠した。
初めてのつわりは、台所に出たゴキブリを、スリッパで叩き潰した時に、飛び散った液体を、胃袋の中に詰め込まれたみたいに、苦しくて気分が悪かった。
ルカは妊娠した事を認めたくなくて、ひたすら放置し続けた。
次第にお腹が大きくなり、産婦人科で診察したら、妊娠4ヶ月だと告げられた。

一瞬、レンが自分のお腹の中に戻って来たんだと、ルカは思ったけど、後藤からは、堕ろす事を強要された。
口には出さないが、ルカも内心、その事を望んでいた。
まだ、17歳だったから、母親になる決心なんかつかなかった。


中絶費用は、この家の家計を圧迫した。
寝る間も無く働く後藤を見て、ルカは、心苦しかった。
「私も働こうか?」
ルカのその提案を、後藤は、すぐに却下した。
「お前は、働かなくていい。ずっと家に居ろ」

「どうして?」

「そういうもんだろ?」
型にはまった考え方。
それをコピーアンドペーストしたような、日常は続いた。

ルカは切り詰めた食費の中で、腕によりをかけて料理を作った。
後藤は、いつもルカが作った料理の上から、塩や醤油をぶっかけて食べた。
ルカの耳の奥の方では、さざ波の音がした。

「薄味すぎたかな?」

「・・ああ」

妊娠が発覚して以来、ルカと後藤は、淡白な会話しか交わさなくなった。
ルカは、何か言いかけては、口の中で溶けるフリスクのように、言葉が舌の上で溶けて消えた。
レンもそうだったのかな?とルカは、思った。
レンと、もっと話しておけば良かった。
あんなに近くに居たのに、レンの事を何も、分かってあげられなかった。
泣き腫らした次の日は、目が真っ赤で、世界は、にじんでる。
睡眠不足の後藤は、目の下にクマを作って、深夜バイトに出かけて行く。

ルカが、酔ったママが口を滑らせて言った、父親の住所に、自転車に乗って会いにいったのは、小学生の時だ。
インターホンを押すと、中から出てきた中年の男は、目を丸くしながら言った。

「・・ルカなのか?」
その日から、こっそりと会っていた父親に、レンが死んだ事を告げても、悲しむどころか、平然とした態度だったから、理由を問いただすと、シオンもレンも、全員、それぞれ父親が違う事を、初めて教えられた。
半分しか血が繋がってなかっただなんて、道理でそんなに似ていないはずだ、とルカは、自分の心の中で納得した。
だけど、ママは、何でその事を隠してたんだろ?
そんな大事な事を、隠し通されていた事に、腹が立っだけど、今はもう、怒る人も居ない。

「ママとは何で離婚したの?」

ルカが父親に初めて会った日に、投げかけた質問に、「あ?結婚なんかしてねえぞ?」という予想外の返答が返って来て、その後、父親は、遠い目をしながら言った。

「お前の母さんとは、不倫だったんだ・・」

ルカは父親の事を知れば知るほど、ガッカリしていった。
こんな事なら、知らないままの方が良かったと、ルカは、思った。

「なあ、金貸してくれねえか?」
ある日、父親からそう言われたルカが、「いくら?」と聞き返すと、「10万くらい」という返答が返って来た。
子どもの頃から、こっそり貯金していたお金の中から、10万円を貸したら、そのまま父親は、行方をくらませた。
ルカは、お金を失った事よりも、父親を失った事の方が、悲しかった。
「皆、私の周りから消えちゃうみたい」とルカは、思った。

息が上手く吸えない日。
待合室は、妊婦でいっぱいだった。
無愛想な医者は、今まで、幾度となく、こんなシーンに出くわして来たであろう、冷たい機械のような作業で、ルカに堕胎手術を施した。

数日後、葬儀が行われ、産まれ損なった命は、半分の大きさに切断された、棺桶に入れられた。
ルカは、身体は軽くなったけど、心は重たくて、潰れてしまいそうになった。
ついこの間まで、胎児が居た場所に、空白が出来て、そこに入り込んだ絶望は、触れてみると人肌だった。

葬儀中、後藤はルカにかける言葉が見つからなくて、無言で横に寄り添っていた。
近くで見ると、後藤の口周りには、うっすらと青い髭が生えていて、体からは、焼きそばソースが焦げついたような臭いがした。

「私、シオンと、同じ事したのかな?」
家に向かう道中、ついルカは口を滑らせてしまった。

「は?シオンって、誰だよ?」
後藤は、不審そうな顔でルカを見た。
もう隠し事なんかしたくないと、ルカは思った。
ありのままの自分を、愛して欲しかった。
私には、シオンという兄と、レンという弟が居た。

「シオンは私の兄。弟を殺したの」

風呂場で、シャワーを出しながら、あげた悲鳴。
全部シャワーの音に混ぜて、排水溝に流した。
世界中の音をミュートにして、ルカはその中で絶叫し続けた。
泣き過ぎて、頭痛がして、こめかみがひりついて、心臓が泥の塊に変わって、体内を落下して腹部にぶつかって、壊れた。
涙は頰をつたい、口の中に入って来た。
薄い塩味が、舌先に当たる。
ずっと、閉口していれば、土砂降りの雨に打たれても、口の中だけは、雨に濡れない。
だからこの薄い塩味の水滴は、口の中に侵入して来た初めての雨。
涙の色は、半透明で、もし幽霊が居たとしたら、きっとこんな色なんだろうなと、ルカは、思った。

その日の夜は、ひんやりとしていた。
冷蔵庫を開いた時に、頰を撫でる冷風のようだ。
そんな死にそうな夜でさえ、次の日の朝が来れば、インクが出なくなったボールペンで、文字を書き続けたみたいに、次の日には、悲しみは薄れてる。
真っ白なページのような、昨日の夜中を、置き去りにして。

翌日、ジムから帰って来た後藤は、スパーリングで折れた歯を、持って帰って来た。
後藤は、どこか誇らしげだったけど、ルカにはそれを、美徳とする感覚が理解出来なかった。
自分を壊そうとするなんて、バカみたい。
ルカはまるで、シオンを見てるみたいで、不快な気分になった。
その後、後藤は、いつものように、ルカの体を求めて来た。
昨日、葬儀が終わったばかりなのに、吹っ切れるのが早すぎると、ルカは、思ったけど、黙って、それに応じるしかなかった。
唯一、いつもと違うのは、射精しようとする後藤に、ルカが、「外に出して」と告げた事だった。
次の瞬間、ルカはお腹の上に、生温かい蜂蜜を垂らしたような感覚が広がった。
そして、ルカと後藤は別れた。

レンが今も生きていたら、18歳になる年。
二十歳を迎えたルカは、どんどん美しくなっていった。
妊娠中、増えた体重は元に戻り、たるんだ肉がついた皮膚が張りを取り戻す。
腰まで伸びた髪を、ショートカットにして、妊娠中に抜けたまつ毛を補填するためのマツエクをした後、髪の毛の色を、金髪に染めた。

レンがどんな声をしていたのかも、ルカは、もう思い出せなくなっていた。
代わりに、街で自販機を見るたびに思い出す事があった。
まだ幼少期のレンの背が低くて、上の段のコーラまで手が届かないから、ルカが抱っこしてボタンを押させてあげた事だ。
幼い頃から、体が弱かったレンを、ルカは、よく看病してあげた。
ルカの記憶の中に留まっているレンは、いつまでも、小学生の頃のままで、今にも、ランドセルを背負ったレンが、この家に帰って来そうな気がする。
自分の知らない所で、レンがまだ生きている気がする。

ルカは、3年ぶりに各駅停車の電車で、昔住んでいた街に降りてみる事にした。

まだ、あの団地の808号室には、あの頃のままの自分達が、暮らしてるような気がする。

中学校の校舎の中にも、まだ制服を着たままの自分が、居るような気がした。

そんな妄想にふけながら、あの団地の前を通ると、別の家族の洗濯物が、ベランダに干してあった。
あの頃は、団地の周りだけが、世界の全てだった。今では、世界を見ているアングルが違う。

大人になるにつれて、心がミキサーのように変わっていって、ルカの中に沸き起こる、全部の感情をかき混ぜている。
だから、今のルカの胸のうちは、悲しいし、嬉しいし、暖かいし、苦しい。
まるで、この街から、抱擁されてるみたい。

ルカは、新しい恋人が待つ家に帰り、洗顔して、ノーメイクになる。
もう帰る場所なんかどこにも無いから、新しい居場所は、これから作る。
目を閉じると、すぐそこにレンが居る。
こうすれば、いつだって会える。
ルカは、目を閉じる。
こうするだけで、この世に生まれて来れなかった赤ちゃんにだって会える。

「だから、私は、一人じゃない」とルカは、思った。

5. Awful Things

「どうして、自分を破壊しようとするの?放っておいても、腐っていくのに」
たまに、門脇の家に入り浸ってる、名前を覚えるのもバカらしい女が、シオンにそう言う。
その女は、コンビニの自動ドアのように、誰にでも股を開く。いつも、その女の陰部からは、爬虫類の死骸のような臭いがした。

女が帰った後、シオンが門脇に、
「あんな女のマンコに挿れるなんて、下水道に突っ込んでるようなもんだろ?」と、言うや否や、門脇は、2時間も爆笑し続けた。
口を開くたびに立ち昇る、マリファナの黄色い煙のせいで、門脇の前歯は、いつもよりも黄色く見える。
喘息持ちの門脇は、マリファナをやり過ぎると咳が止まらなくなるから、「後は、お前が全部吸っていいぞ」と、残ったマリファナを、シオンに渡した。

薄暗い刑務所の中の暮らしは、シオンの視力を奪った。
シオンがマリファナを吸うと、掛けているメガネのレンズまでが、黄色い煙に包まれる。シオンのメガネだって、シオンと一緒にマリファナをやっているように見える。
門脇が、注射器と間違えて、すぐそばにあったアイスピックを刺して、腕から流血しながら爆笑する姿を見て、シオンも朝まで、腹を抱えて笑った。

玄関には、折り畳み傘じゃないのに、無理矢理折り畳もうとして、ぐにゃっと折れ曲がった傘が、玄関に捨てられている。
コカインと、脱法ハーブと、MDMAと、マリファナ。
これらが、非合法なのは、人間を壊す物だからだそうだ。
だけど、この世には、いっそのこと、壊れてしまいたい人間だって存在してる。

この部屋にある物の中で、唯一、合法なのは、酒だけ。
コカインをスプーンで鼻から吸引した後、そこら辺に転がってる酒を流し込んだ。シオンは一瞬で、泥酔したような感覚になる。
でも、それが、どのドラッグによって引き起こされているのかが、分からないくらい、たくさんのドラッグを同時にやった。

シオンが刑務所に居た4年間の間に、面会に来たのは、門脇だけだった。
「ルカはどうしてる?」
「しばらくして、引っ越したみたいだな。もうお前の家には、誰も住んでねえよ」
「そうか・・」

門脇が音信不通になっていたのは、マリファナの不法所持で、留置所に入れられていたからだと、面会室で、聞いたシオンは、今もあの日のパトカーに追われ続けている感覚が残っていた。
シオンの中では、あの日の逃走劇が、今だに続いてる。ずっと何かに、追われてる。

そして魂はまだ、あの日の取調室の中に居る。
警察に写真で見せられた、レンの死体の写真が、頭から離れない。
ルカもきっと、あの写真を見せられたはず。
「死ぬべきだったのは、オレの方だった」とシオンは、思った。
それからシオンは、刑務所の中で生きる事を放棄した。
何度か試みた自殺未遂も、意識を取り戻せば、医務室のベッドの上。
壊しても、壊しても、修理される体。
システムエラーを起こしているのは、心の方だから、体を治しても、結局は無意味で、今では、コカインと脱法ハーブが、壊れた心のセラピストのようになり、脳みそを炙られているような、カウンセリングの診察結果、シオンが口に出した言葉は、「・・オレ、今、空気の姿が見えてる気がする」。
頭が体ごと、ぶら下げたまま宙に浮かんでいく。
ベランダから見える、コンクリートを空に敷いたような曇天。
シオンは、あそこに衝突して、粉々になって、死んでいきたかった。
門脇はその隣で、自分の影に向かって、「お前もやれよ」って、注射器を、影が伸びた床に向かって打っていた。
命をこんな風に、粗末にしながら日々を過ごしてる。まるで、人間の粗悪品。

目覚めたシオンが見る、自分が鏡に映った姿。
知らぬ間に口髭が、唇の上に暖簾のように伸びていて、それは、もう数日が経過している事を表していた。
カップラーメンを食おうと思って、鍋を火にかけたまま、その事をすっかり忘れて、水はお湯に代わり、そのまま全部、蒸発して消えた。

刑務所の中の娯楽は、読書くらいしかなかった。
「ムショでどんな本、読んだ?」
刑務所から出たばかりのシオンに、門脇が尋ねた。

「うたかたの日々」

「うたかた?何だそれ?どんな話?」

「肺に水蓮の花が咲いて、死ぬ女の話だ」


「へー」
門脇は、しばらく考え込んだ後、笑みを浮かべながら、こう言った。

「俺だったら、お腹の中で、マリファナを栽培するけどな。
絶対に、サツにバレねえぞ?」

パンツ一枚の門脇は、腹の肉が、膨らんだモチのように、前方に突き出している。
ドラッグをやった後は、触覚がちぎれた虫の飛行のような、歩き方しか出来ない。
足元から伸びた影が、巨大な落とし穴に見える。
電車がすぐ上を通ったように、体が振動してる。
そのまま、それは、痙攣となって、内臓を腐葉土の中に埋もれてるみたいな感覚で出迎える。
ずっとドラム式洗濯機の中に居て、回転してるみたいに世界は回ってた。
嘔吐を繰り返して、体内が空っぽになっても、まだ胃袋の中には、気怠さが残っている。
「お前、見てるとよお、死ぬ前のリコさんを思い出すよ」
門脇が、カップ麺をすすりながら、唐突に語り出す。
「死ぬ前の、リコさんを見てるみたいなんだ」
黙って聞いてるシオンに、門脇が、続ける。
「お前、死ぬのか?」
色んなドラッグをやり過ぎて、シオンは、左耳が完全に聞こえなくなった。


シオンは門脇から、運び屋の仕事を紹介された。
運んでいるバッグの中身が、何なのかすら、教えてもらえない。知らない方がいい。
決まっていつも配達先は、普通のマンションだった。
寝静まった街を歩く時は、地球丸ごとを、誰かのポケットの中に入れたみたいな感じがする。
インターホンを押したら、出て来たのは、5分後には、忘れてしまいそうな、どこにでもいる、普通の見た目の男だった。
そいつにバッグを渡せば、万札が入った封筒が手に入る。
その報酬で、シオンは、またドラッグを買う。
そんな暮らしの中から、余った金をかき集めて、探偵を雇う。
「妹を探して欲しい」
数日後、連絡があり、とある住所を渡された。
シオンは渡された住所に向かう。それは東京の郊外。いつもの運び屋の仕事の、配達先のマンションみたいな普通のマンション。インターホンを押す。
ドアを開いて出て来たのは、シオンが四年ぶりに見たルカの姿。
居なくなったママの若い頃に、そっくりだ。
その目は戸惑いを隠せないでいる。

黒ずくめのパーカーのフードの帽子を被っている。そこから除いてる顔のパーツで、ルカにはその人が、シオンだと分かる。

「・・何しに来たの?」

ルカは、何とか言葉を絞り出して言った。

「出所したんだ」

「どういうつもり?」

「何が?」

「えっ?本当に出所したの?レンを金庫強盗に誘って、パトカーに追われて、逃げる途中で、事故ってレンを殺したのに、たった四年で出て来れんの?」

「・・ワザとやったんじゃねえよ」

シオンは、知らぬ間に、口内炎がいくつも出来ていて、喋るたびに、割れたガラスの破片を、口の中で転がしているみたいに、口の中がしみた。
その口内炎は、心臓の周りも埋め尽くしている。そして、息を吐くたびに、心をしみさせた。

「もう消えて!顔も見たくない!」

「おい、全部、オレのせいだってのか?
アイツはどうなる?突然消えて、オレたちを捨てた?アイツさえまともだったら、オレはあんな事・・」

「そんな話、聞きたくない!帰って!」

「おい、忘れちまったのか?金が必要だっただろ?あの時は、ああするしかなかった!仕方ねえんだよ!オレが何とかするしか無かった。お前らのためだ!」

「何、自分を正当化してんの?全部、家族のためにやったって?違うわよ!あんたは、ただ全部を壊しただけ。もうこれ以上、人の人生を壊さないで。レンを殺したくせに」

「そんな事は、言われなくても、分かってんだよ!どんだけ自分を責めたと思う?こっちは、罪を償って出て来てんだ!」


「償うって何?ムショに入る事?レンを返してよ!レンは、もう居ないのよ!あんたのせいで!
全部あんたが引き起こした!
全部むちゃくちゃにしたくせに!消えて!
あんたが、死ねば良かったのよ!」

そう言って、ルカは、ドアを閉めた。
ずっと、周波数が合わない人間同士の会話って感じがした。

シオンが帰った後、ルカは、
「もうあの頃のシオンは、死んだ」と、思い込もうとした。
そう思おうとすれば、する程、子どもの頃のシオンの姿ばかり、頭に浮かぶ。
思い出の中のシオンは、あの時のまま止まってる。
レンは、まだ赤ちゃんって感覚が残ってる。
レンが生きていた時の余韻も、ずっと残ってる。まだ青いまま収穫されたイチゴを、かじった時みたいに、甘酸っぱい記憶になって残り続けてる。
体内にある透明なガラスが割れて、粉々になった。
その破片が、心臓にかすり傷を付けていく。


シオンは、運び屋の仕事の途中に、駅の公衆便所の障害者用トイレに入る。
そこは、世界中の誰の視界にも、入らない場所。
汚れた床の上に座り込む。シオンがそのまま、床に脱ぎ散らかした靴。ブラックコーヒーの空き缶が転がった床には、トイレットペーパーの切れ端が、こべり付いている。
ここに居れば、誰にも邪魔されない。誰も自分を傷つけない。巨大な母の胎内に居るような感覚。
口の中が、乾いてる。砂漠の中に舌があるみたいに感じる。

『鏡とジャンケンしてたらさ、勝てたわ』
という、門脇から来たLINEから、察するに、あいつは真っ昼間から、コカインをやっている。

シオンは、いつも運んでいるバッグの中を、初めて開けた。
中からは、セーターに、お菓子に文庫本。至って普通の荷物が出て来た。
だが、その奥を探ると、透明な袋に入れられた、白い粉が出てくる。シオンの心拍数は上がる。
高校を中退したから、貰えなかった卒業証書。
ともすれば、自殺は人間の中退。
その白い粉を、スプーンに乗せて、火で炙りながら、水で溶かした。
魚から血抜きするみたいに、注射器から溶かしたクリスタルを、針で静脈に流す。
低空飛行するジェット機が、後頭部に衝突したような衝撃と共に、湖が体の中に入ってくるみたいな感覚が広がる。シオンは、ヘロインをひたすら、炙って打ち続ける。
自分の輪郭が、溶けて、世界と繋がって揺れている。
胎内で進めた進化を、逆行するみたい。
胎児に戻って、精液になり、便所の床に散って、染み込んでいく。
シオンの聞こえなくなった左耳に、団地の廊下を歩く、ルカとレンの足音が聞こえる。
それは、学校に行く前の毎朝のそそくさ。
目が覚めた時に、また、あの日の朝になっていて欲しい。
シオンは、そう願いながら、バッグの中にあったヘロインが、3分の2が無くなった所で、痙攣したまま意識を失った。
50分後、警備員によって、左腕に注射器が刺さったままの姿でシオンは、発見された。

ルカのケータイには、知らない番号から、留守電が入っていた。
再生してみると、「ルカ、オレだ」と、シオンの声にルカは、絶句する。

「これが最後の電話だから、切らずに聞いてくれ」
シオンの消え入りそうな浅い呼吸音が、たびたび聞こえる。

「・・レンの事はすまなかった。
レンだけじゃなく、お前の人生も滅茶苦茶にしちまった。全部、オレのせいなんだ。
・・ルカ、ごめんな。
でも、もう安心してくれ。
もうお前の目の前には、二度と現れないから」
そこで、メッセージは、終わる。
ルカは、その留守電を聞いて、「シオンは、このまま死ぬ」と直感的に感じた。
ケータイを掛け直しても、折り返しは、来ない。
昔のシオンの事が、頭に浮かぶ。
内気で、「画家になりたい」と言っては、絵ばかり描いていたシオンは、ルカやレンの似顔絵も、よく描いてくれた。
だから、ルカは、シオンが大人になったら、自動的に画家になるもんだって、思っていた。

今の留守電で、ルカは、その頃のシオンの存在を感じた。
いつものシオンの喋り方とは、違う。
あの頃のシオンを彷彿とさせる、少年のような話し方。
あの頃のシオンは、まだ今のシオンの中に生きている。
「その子まで、殺してしまわないで欲しい」と思って、ルカは、涙を浮かべる。


6. Never mind

シオンは、目覚めると、真っ白な病院に居た。
病院のベッドのシーツが、暖かくシオンの体を包む。
「あれだけの量を、体内に入れて、まだ生きてる事なんて奇跡ですよ」と、そう医者はルカに告げた。

シオンは意識が戻ってから、リハビリの一環で、スケッチブックを渡された。
震える手で持った鉛筆で、シオンが最初に描いたのは、子どもの頃のレンの絵だった。

「順調に回復されていて、最近は病室で、節目がちな男の子の絵ばかり描いてますよ」
医者からの電話を切った後、「それは、レンの絵だ」とルカは、直感的に感じ、いつかシオンの絵を見てみたいと、思った。

シオンは、毎日、レンの絵を描き続けた。
そうする事で、レンを絵の中で、永遠に生きさせようとした。
描く事は、シオンにとって、世界と繋がるためのカートリッジであり、絵の中に、狂気を封じ込める作業でもあった。
シオンの絵を見て、看護婦は、息を詰まらせた。
「これが、本当にこの人が描いた絵なの?」
看護婦は、目の前の状況が信じられなかった。
シオンの絵は、すぐに病院内の噂になった。
その絵は、絵の中で、人に命を授けるような絵で、見た者の心を必ず掴んで、シェイクさせた。

シオンは、毎日毎日、大量の絵を描くため、ついには、その置き場所に困り、描いた絵をゴミ箱に捨てるようになった。
ある日、シオンが、病室のゴミ箱に突っ込んだ一枚のキャンパスを、看護婦がこっそり、ルカの元に送った。

それは血を流しながら、描いたようなレンの絵だった。
剃刀で世界を削ったかのような、鋭角な線に、塗られた絵の具は、シオンが垂らした血液のようだった。
人間の中にある37兆個の細胞を、全て集めてそこに再現したような、繊細な色彩。
「レンが生きてる」
ルカは、その絵を見て、膝から崩れ落ちて、割れた卵から、垂れてくる卵黄のような、大粒の涙を流した。
レンが、すぐそこに居て、絵の中で呼吸している。
ルカの心の中の、欠けていたパズルのピースの隙間を埋める。
涙腺の中で揺れる視界は、絵の中のレンを水族館の中に居る魚のように、揺らし続けた。
ルカは、その絵を生涯、捨てる事は無かった。
それは、シオンが、誰よりもレンを理解し、愛していた証拠だった。
その絵を見ていると、シオンの心の中を見ているような気になった。

シオンが入院する病院は、地下鉄を二本乗り換えないと、辿り着けない。
病院に到着すると、ルカは、開けっぱなしの病室の入り口から、シオンの様子を覗いた。
シオンの病室は、描きかけの絵が散乱していて、まるでアトリエのような状態になっていて、どの絵にも必ず、レンの姿が描かれていた。

シオンは、片手に持ったパンをかじりながら、描き続けていた。
髪は短く刈り込んでいて、その時ルカは、黒髪のシオンを10年ぶりに見た。
今描いているキャンパスには、打ち上げ花火を絵にぶつけて、爆発させたような、狂気が宿っていた。
シオンには、ずっと狂気を閉じ込める入れ物が必要だったのかも知れないと、ルカは、その時思うと同時に、シオンはようやく、本当の居場所を見つけられたんだと思った。

「具合はどう?」
病室の中に投げかけたルカの言葉に、シオンは振り返り、こう答える。
「ああ、・・かなりマシだ」
シオンの話し方は、以前とは違って、穏やかな口調になっている。
ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れて、本当のシオンが現れたみたいで、ルカは、やっと本当の意味でシオンと、再会出来た気がした。

ルカは、病室の中を見回して言った。
「こんなにたくさん、描いたのね」

「ああ・・、他にやる事もねえからな」

「・・ねえ。・・ここもいいけど、ちょっと庭に出ない?」

シオンの右足は、中の綿を全てかき出されたぬいぐるみのように、ペシャンコになっている。
それは、シオンに残った後遺症の一つだった。
杖をつきながら、体を斜めに傾けて廊下を歩く。
ルカもそれに続いた。
「歩くの遅えだろ?」
「ううん、そんな事・・」
「いいんだ、慰めの言葉なんか・・」
二人は、病院の廊下を、ゆっくりと進んでいく。
ルカは、シオンの体を支えながら言った。
「いつも、私とレンを置き去りにして、一人で先々、歩いてたでしょ?」
「そうだったけな?」
「あの頃より今の方が、私は好きよ」

病院の庭にあるベンチに、シオンが座ると、ルカはその隣に腰掛ける。
二人の上で、木についた若葉が、風に吹かれて揺れている。

「いつもここに座ってるオッサンがさ、ヤバイ奴なんだ」
シオンがゆっくりと、話を続ける。
「ここでオナニーしてやがんだよ。・・看護婦達を見ながら」
ルカは「何それ、ヤバすぎない?」と言って笑った。

二人は、しばらく流れていく雲を眺めて過ごした。
空の青さは、青信号の青で、そのまま進めって言ってくれているように、シオンは感じる。

「あっ、そうだ!」
何かを思い出したようにルカは、バッグからファンシーな柄が描かれた、四角い箱を取り出した。

「はい、これ」と、ルカはそれをシオンに差し出す。
「何だ?」
「今日、誕生日でしょ?」
その日は、シオンの24歳の誕生日だった。
シオンは、今日が誕生日だって事を、すっかり忘れていた。
その時初めて、今日が自分の誕生日だった事を思い出した。
「開けてみて」
シオンが開けた、箱の中から出て来たのは、白いホールケーキで、その上には、クリームで飾り付けがされていて、チョコレートのプレートには、『シオン誕生日おめでとう』と書いてある。

シオンは、それを見た瞬間、小学生だった頃の自分に戻る。
バースデーケーキが、欲しくて欲しくて、たまらなかった。
だけど、それを欲しいと思う事さえ、悪い事だと思っていた。

ルカは、少年に戻ったような、あどけないシオンの表情を見て、優しく微笑んだ。

それは、シオンが生まれて初めて貰った、バースデーケーキだった。

(完)
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