幻惑
玄関に置いた、2つのスーツケース。ハンドルを引き上げて、運び出そうとする私に
 
「結花里。これ、持って行きなさい。」

そっとリビングから出てきた母が、小さな封筒を差し出す。
 
「何?」

と言って、私は中を覗く。預金通帳と印鑑が入っていた。
 
「ママ。」と言ったきり、私は言葉に詰まった。


こんな形で家をでる私に、母はまだ手を差し伸べてくれる。豊かで、幸せだった日々が私の胸に甦る。


一瞬、怯む心に蓋をするように、私は軽く首を振った。
 
「ありがとう。」

と震える声で母に言うと、荷物を引いて、玄関の外に出た。



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