偽お嬢様の箱庭
新しいこの屋敷の主は、「二階堂千世」といった。
数年前までは彼女の両親がここに住んでいたようだが、私と同い年である彼女が大学を卒業するとともに、彼女にこの家を譲り渡したそうだ。
葵は私がここを去ったあと、どのような道を歩んでもよいと父に告げられたという。
柊木家としての伝統を守り、当然のように優秀な執事としてしつけられてきたというのに。「主を失った今、もはやお前を束縛する意味もなくなってしまった。」そんなことを父親に告げられた青年の気持ちは、どんなものだっただろうか。
そうして行き場をなくした彼は、新たな主を求め、使用人として雇われたのが二階堂家であったというわけだ。
風貌もよく仕事も限りなく完璧にこなす彼を、千世お嬢様が気に入らないはずもなく。
とたんに専属執事に任ぜられた葵は、しばらくの間彼女の身の回りの世話をしていたらしい。
「....そうなんですね、」
「どうしたんですかユウキ様。」
「いえ、別に。なんでも。続けてください。」
"千世お嬢様の専属執事"であった彼のもとにある日舞い込んできたのは、お嬢様の縁談だった。
当時国立美術大学に在学していた彼女は、なかなかに人と会うことを嫌い、屋敷に引きこもりがちであったらしい。
今時時代錯誤も甚だしい話ではあるが、両親が見繕った相手と話をまとめ、出会う場を設けたというのだ。
とはいっても、縁談相手もやはりお嬢様ともなれば相当な名家の方であったようで。
ほとんど出来レースであったことは、想像に難くなかった。
「普段から自由奔放と言いますか、かなり我が強く人嫌いで、こう....猫のようなところがありまして。」
表現に困った葵は、苦笑を浮かべながらそう語る。
聞きかじった私でさえも、その表情から相当彼が手を焼いていたのだろうと思った。
「ユウキお嬢様は少しわがままなところはありましたけれど、やはりお利口なお嬢様だったのだなと痛感したものです。」
「それは、どうも。」
「お嬢様が旦那様の取り決めた縁談に反発していることは私も把握していたのですが、その程度が想像をはるかに超えていたといいますか、何と言いますか。以前にもまして部屋に引きこも作品制作に没頭するようになったかと思えば、ある日を境に毎日のようにお出かけになられたり…。」
芸術肌の人というのは、作品を生み出すに必要な感受性が凡庸な人よりも強いというか、情緒の上下が激しい人が多いように思える。特にお嬢様の場合、感情的な行動が目立つことから考えても、葵の苦労は相当なものだったのだろう。
「そしてある朝、いつものようにお嬢様を起こそうとお部屋に向かったのですが、」
「まさか」
「・・・その、まさかでございます。」
お金で幸せは買えないなんてよく言ったもので、実のところお金というのは世のほとんどのものを買うことができる。
その一つが「自由」だ。娘の一人暮らしにこの広大な屋敷をぽんと譲り渡すほどの家だ。有り余る金で与えられた潤沢な自由を謳歌して生きてきた彼女が、あろうことかその両親地震によって将来を束縛されようとしている。
こんな現実が彼女に受け止められるだろうか?
答えは否だ。
「忽然と姿を消したあの日以来、お嬢様の行方は全くわからない状況です。捜索はしていますが、一体どのような手段で身を隠しているのか。当てがあるのかすらもわかっていない状況なのです。」
迫るはおそらく破談にはできないであろう縁談。
警察に届けるわけにもいかない御家事情も加わり、葵の心労は計り知れない。
「でも、そこでどうして私が呼びつけられたのですか?もうこの地を去った身です。二階堂家とも何らかかわりはないはずでは?」
「それは、」
明らかに、葵の目線が泳ぐのを私は見逃さなかった。
冷静沈着で、すべてを完璧にこなす男。それが柊木葵という男だ。
その「すべて」には、感情制御ももちろん含まれており、ちょっとやそっとのアクシデントではその表情はぶれない。
しかし、今の間は何だろうか。
「…お嬢様、」
ぽつり、とつぶやかれたひとこと。
葵はそっと立ちあがると、私のすぐそばに立ち、少しだけかがんで見せた。
彼のひやりとした手が頬に触れたかと思えば、ぐっと距離を縮め、耳元でこう囁いた。
「…………、どうか、お許しください。」
ぞくり。
全身に駆け巡る感覚で、息ができない。
耳にかかる彼の吐息がやけに甘ったるくて、艶めかしくさえある。
ねえ、葵。
そう言葉を紡ごうと息を吸ったけれど、阻止するかのように彼の唇が優しく私の口を覆う。
大切に、唇を食むようなキス。
見開かれた私の目がとらえたのは、どこか悲しそうな表情を浮かべる葵。
長いまつげの影が、頬に落ちていた。
せっかく入れてもらった紅茶はもう冷めてしまったかな、なんて。
どうでもいいことが頭をかすめて、何も考えられなくなる。
直後、世界が暗転した。
。
数年前までは彼女の両親がここに住んでいたようだが、私と同い年である彼女が大学を卒業するとともに、彼女にこの家を譲り渡したそうだ。
葵は私がここを去ったあと、どのような道を歩んでもよいと父に告げられたという。
柊木家としての伝統を守り、当然のように優秀な執事としてしつけられてきたというのに。「主を失った今、もはやお前を束縛する意味もなくなってしまった。」そんなことを父親に告げられた青年の気持ちは、どんなものだっただろうか。
そうして行き場をなくした彼は、新たな主を求め、使用人として雇われたのが二階堂家であったというわけだ。
風貌もよく仕事も限りなく完璧にこなす彼を、千世お嬢様が気に入らないはずもなく。
とたんに専属執事に任ぜられた葵は、しばらくの間彼女の身の回りの世話をしていたらしい。
「....そうなんですね、」
「どうしたんですかユウキ様。」
「いえ、別に。なんでも。続けてください。」
"千世お嬢様の専属執事"であった彼のもとにある日舞い込んできたのは、お嬢様の縁談だった。
当時国立美術大学に在学していた彼女は、なかなかに人と会うことを嫌い、屋敷に引きこもりがちであったらしい。
今時時代錯誤も甚だしい話ではあるが、両親が見繕った相手と話をまとめ、出会う場を設けたというのだ。
とはいっても、縁談相手もやはりお嬢様ともなれば相当な名家の方であったようで。
ほとんど出来レースであったことは、想像に難くなかった。
「普段から自由奔放と言いますか、かなり我が強く人嫌いで、こう....猫のようなところがありまして。」
表現に困った葵は、苦笑を浮かべながらそう語る。
聞きかじった私でさえも、その表情から相当彼が手を焼いていたのだろうと思った。
「ユウキお嬢様は少しわがままなところはありましたけれど、やはりお利口なお嬢様だったのだなと痛感したものです。」
「それは、どうも。」
「お嬢様が旦那様の取り決めた縁談に反発していることは私も把握していたのですが、その程度が想像をはるかに超えていたといいますか、何と言いますか。以前にもまして部屋に引きこも作品制作に没頭するようになったかと思えば、ある日を境に毎日のようにお出かけになられたり…。」
芸術肌の人というのは、作品を生み出すに必要な感受性が凡庸な人よりも強いというか、情緒の上下が激しい人が多いように思える。特にお嬢様の場合、感情的な行動が目立つことから考えても、葵の苦労は相当なものだったのだろう。
「そしてある朝、いつものようにお嬢様を起こそうとお部屋に向かったのですが、」
「まさか」
「・・・その、まさかでございます。」
お金で幸せは買えないなんてよく言ったもので、実のところお金というのは世のほとんどのものを買うことができる。
その一つが「自由」だ。娘の一人暮らしにこの広大な屋敷をぽんと譲り渡すほどの家だ。有り余る金で与えられた潤沢な自由を謳歌して生きてきた彼女が、あろうことかその両親地震によって将来を束縛されようとしている。
こんな現実が彼女に受け止められるだろうか?
答えは否だ。
「忽然と姿を消したあの日以来、お嬢様の行方は全くわからない状況です。捜索はしていますが、一体どのような手段で身を隠しているのか。当てがあるのかすらもわかっていない状況なのです。」
迫るはおそらく破談にはできないであろう縁談。
警察に届けるわけにもいかない御家事情も加わり、葵の心労は計り知れない。
「でも、そこでどうして私が呼びつけられたのですか?もうこの地を去った身です。二階堂家とも何らかかわりはないはずでは?」
「それは、」
明らかに、葵の目線が泳ぐのを私は見逃さなかった。
冷静沈着で、すべてを完璧にこなす男。それが柊木葵という男だ。
その「すべて」には、感情制御ももちろん含まれており、ちょっとやそっとのアクシデントではその表情はぶれない。
しかし、今の間は何だろうか。
「…お嬢様、」
ぽつり、とつぶやかれたひとこと。
葵はそっと立ちあがると、私のすぐそばに立ち、少しだけかがんで見せた。
彼のひやりとした手が頬に触れたかと思えば、ぐっと距離を縮め、耳元でこう囁いた。
「…………、どうか、お許しください。」
ぞくり。
全身に駆け巡る感覚で、息ができない。
耳にかかる彼の吐息がやけに甘ったるくて、艶めかしくさえある。
ねえ、葵。
そう言葉を紡ごうと息を吸ったけれど、阻止するかのように彼の唇が優しく私の口を覆う。
大切に、唇を食むようなキス。
見開かれた私の目がとらえたのは、どこか悲しそうな表情を浮かべる葵。
長いまつげの影が、頬に落ちていた。
せっかく入れてもらった紅茶はもう冷めてしまったかな、なんて。
どうでもいいことが頭をかすめて、何も考えられなくなる。
直後、世界が暗転した。
。