妖しな嫁入り
 長く伸びた爪は霞めただけでも肌を傷付ける。このまま胸に突き立てられたらそれで終り。
 こんなところで終わるのかと問い掛ける自分がいて――、それも悪くないと導きだされた結論に驚いた。

 私が『生きてきた時間』と『朧と出会ってからの時間』、秤にかけたところで比重は圧倒的に後者の方が軽い。けれど私の秤は後者に傾く。それくらい充実した日々を送っていた。道具のように扱われるのではなく、名前のある人間として扱われていた。
 全部、朧が与えてくれた。こんな場面で実感するなんて遅いけれど、感謝くらいはもっと伝えておいても良かった。感謝の言葉なんて減る物でもないのに意地を張っていた。

 もう一度名前を聞かせてほしかった。この妖は『あなた』と呼ぶけれど、私には名前があるの。朧がくれた――

「椿!」

 ああ、偽物とまるで違う。こんなにも想いがこもっているのに、今まで何を聞いていたのだろう。
 声に誘われるように目を開くと私はまだ生きていた。

「どう、して……」

 視線の先で驚いているのは女も同じ。けれど私の驚愕とは違い、表情には恐怖が交じっている。先ほどまでの嘲笑は消え青ざめていた。

「無事か!?」

 僅かに顔を動かせば、朧が女の手を掴んでいた。怖ろしい力が込められているのか、みしみしと不穏な音がする。このまま握っていれば折れるのではないか、不安が現実になる前に藤代が女の身柄を拘束してくれた。
 重みが消えた私は身を起こす。肩を負傷したことなんてすっかり忘れて畳みに手をつけば、傷を庇おうと呆気なく均衡を崩していた。

「椿!」

 傷に触れないように、けれど力強く朧が抱きとめてくれる。おかげでまた頬をするという事態は避けられた。ああ、こう言う場面でお礼を言えばいいのかと口を開くが先手を打たれる。

「野菊に様子を見に行かせたが、姿が見えないと聞いた。何かあったのではと、探して回ったよ」

 部屋から出ないと言ったことを思い出す。そんな些細な言葉さえ信じてくれていた?

「朧様、この女が仲間を刺したのです。ですから私が裏切り者を捕らえようと――」

 藤代に拘束されながら女は叫んだ。

「うるさい、黙れ」

 朧にぴしゃりと言い切られ、女は声を失くす。

「言っただろう、椿は約束を違えるような女ではない」
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