映写機の回らない日 北浦結衣VS新型ウイルス感染症
第4話 いまのあんたはジョーカーと同じ
「退院おめでと! いまからそっち行くね!」

 涼子からのメッセージはたくさんの絵文字で彩られていた。

 涼子は私が退院する数日前に、濃厚接触者としての自宅待機が解除されていた。退院してから数日後、メッセージを送るとすぐに返事があった。が、正直会いたくない。退院してすぐに連絡をしなかったのもそのためだ。帰宅して、まずやったことは映画館への退職連絡だった。はじめは数日程度の臨時休館の予定だったが、再開予定をWEBで告知すると、応援の声以上にクレームが多く寄せられ、抗議の主が映画館に行く人たちなのかは定かではないが、状況を鑑みた結果、休館期間を延長することになり、いまも閉まったままでいる。

「そうか、わかった。いまバタバタしてるからまた連絡する」
「はい、すみません。失礼します」

 支配人とのやり取りは簡潔だった。お互いに余計なことは何も言わない。実は、引き止めてくれることを多少期待していたから、チクリと胸が痛かった。この数日はひどい心理状態だった。症状は薬で改善し、陰性が認められたため、退院を許された。あの看護師は「病は気から」とアドバイスをくれたが、それに照らせばいまの私はいつまた病気になってもおかしくない状態だろう。家から出ず、適当なもので食事を済ませ、ただ寝ていた。映画からは離れたく、動画配信サービスで映画を見ることもない。涼子みたいにゲーム好きなら、独りでも楽しく過ごせたかもしれない。いまの気分で慣れない趣味に手を出すのは億劫だった。


「なんかもう疲れた。隔離されるのってきっついよ。今度、再発したらどうしようかな。街に出て、色んな人と触れ合ってウイルス撒いちゃおうか」
 何もかもがどうでもよくなり、半ば自暴自棄になった私は不謹慎でつまらない、最低の冗談を涼子に言った。もちろん本心ではないが、そんなことを口にするなんて、どうしようもない人間だ。訪ねてきた涼子と会いたくなかったから、顔を会わせることも拒絶した。玄関を隔てた電話での会話を涼子に強いているのも、彼女に対してひどい仕打ちだと思う。

「バカなこと言わないで!」

 涼子が吠えた。外からの声が玄関ドアを通して、部屋の中でも聞こえる。

「そんなキャラじゃないよね! 去年、一緒に『ジョーカー』を見に行ったときのこと、覚えてる? 私が主人公の気持ちがなんとなくわかるかもって言ったら、あんたは『まったく理解できない。メソメソしすぎ。世の中恨みすぎ』って一蹴したんだよ。カチンときたから記憶してる」

 涼子の気迫に圧倒される。彼女は続けた。

「いまの結衣はジョーカーと同じだよ。映画のジョーカーは好きだけど、病的なジョークを言うあんたは好きじゃない!」

 <あんた>と呼ばれて動揺した。涼子は本気で怒ると、私のことを<あんた>と呼ぶ。最後にそう呼ばれたのはいつだったか。中学生の頃、転校する友達のサプライズパーティーのやり方をめぐって対立したときだったと思う。茜に仲裁してもらって、仲直りできたが、あのときの涼子は怒りながらも悲しい表情をしていた。あの顔は忘れられない。いまもあのときと同じ、怒りと悲しみを顔ににじませているのだろうか。

「自分のことを要らないとか、そういうのはもうやめよ?」と涼子が震える声で言った。

 私はひどいやつだ。不要不急の外出は控えろと言われている中でも、心配で来てくれた友達にくだらない冗談を言い、怒らせ、そして悲しませてしまった。

「怒らせちゃったかな、菩薩の涼子を。謝るよ」

 もっとちゃんと謝らないといけないのに、変にカッコつけた言い回しになってしまう自分が情けなかった。


 あのあと、涼子は引き篭もっている私のためにトイレットペーパーやティッシュを手に入れようと奔走した。詳しいことは話してくれなかったが、店の物資の争奪戦で大変な目に遭ったのだろう。近所のドラッグストアで店員と客の間で、入荷した物資の販売タイミングを巡る騒乱があったことを翌日、ネットで知った。その場に涼子もいたのだろう。食料品しか手に入らなかったと涼子は口にしたが、彼女のことだ、きっとトイレットペーパーやティッシュを手に出来るチャンスがあったとしても、他の人に譲ったんじゃないだろうか。

「でも、本当に美味しかったね、あのドーナツ。結衣が淹れてくれたコーヒーも心が温まったよ」
「インスタントだけど、隠し味を入れてるからね」
「なんだろうな。いまだに教えてくれないんだもん」
「こういうのは、これだ!っていうタイミングのときに明かさないと」

 涼子が争奪戦から帰還したあと、私たちはひと時の和みを味わった。昨年より世界的に流行りだした、アメリカのカンザス州発祥のスイーツ、<カンザスドーナツ>を食べながら。心底、安らげるひと時だった。不思議なくらいに荒んだ心がすーっと癒されていった。すべて涼子のおかげだ。

 あの日から状況はさらに悪くなっている。感染者数の増加は止まらず、海外では医療崩壊と呼ばれる事態になっている国もあるという。メディアの伝え方には問題もあるだろうが、緊急事態であることは事実だろう。メディアといえば、聞き慣れない用語が飛び交うのには、苦笑してしまう。<パンデミック>はまだ、映画に親しみがあれば聞き覚えがある。だが、<クラスター>、<オーバーシュート>、<ロックダウン>はなんのこっちゃだ。映画館に勤めていたこともあって、昔の興行の勉強をした際、<サーカムサウンド>だの<ビジュラマ方式>だの<ダブルテンションシステム>だのといった、意味不明のシステム名による上映方式がかつてあったことを知り笑ったが、あれと変わらない。こんな冗談を言うと、涼子に怒られるかもな。そんなことを考えていたとき、電話がかかってきた。

「岸田です。いま、話せますか?」

 かつてのバイト先の先輩、岸田さんからだった。

(続く)
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