熱海温泉 つくも神様のお宿で花嫁修業いたします
「すみません、私……っ。お客様の前で酷い顔を……」
「ふふっ、大丈夫ですよ。やっぱり、あなたはとても優しくて、素敵な方。これまで長く生きてきた甲斐がありました。今度はあなたに会いに……つくもに来ます」
小さく笑った傘姫は、そう言うとそっと花の手を取った。
「──大丈夫。八雲さんなら、あなたをきっと今以上に幸せにしてくれます。そしてあなたなら、きっとこの場所を温かく包み込む、陽の光のような素晴らしいお嫁様になるでしょう」
繊細な指は花の手を優しく撫でたあと、蝶が飛び立つように離された。
思いもよらない傘姫の言葉に花は目を見開いたが、傘姫は再び目を細めてから静かに笑った。
「ひとりでは決して乗り越えられないことも、この人となら乗り越えられるような気がする。結婚とは、そういうふうに想い合うふたりが、ひとつの傘を持つようなことだと私は思うの」
「ひとつの傘を……」
「ええ。ひとりが傘を持てないときは、もうひとりが傘を持てばいい。たとえ、ふたりともが傘を持てなくて濡れてしまっても、顔を見合わせたら笑い合える。そして八雲さんとあなたなら……きっと、それができるふたりになれるわ。だから安心して、ふたりで幸せになってくださいね。──八雲さんも、どうか花さんのことをお守りくださいませ」
凜とした声は、花の後ろに立つ八雲へと投げられた。
ハッとして花が振り返ると、数メートルほど離れた後方に八雲が立っていて、傘姫に向かって音もなく頭を下げた。
「それではみなさま、ご機嫌よう」
着物の裾が、ふわりと揺れる。
そのときだ。まるで、この瞬間を待っていたかのように、降り続いていた雨が止んだ。
「雨が──、」
つくもの外に出た傘姫は開こうとした和傘を持ち直すと、しばらく立ち止まったままで、青に染まる空を見上げた。
どこまでも続く青空の彼方には、薄っすらと虹の橋がかかっている。
それを見て顔を綻ばせた傘姫は、手にした傘を閉じたまま真っすぐに、来た道を帰って行った。
「また──またのお越しを、心よりお待ちしております……っ!」
傘姫は、一度も振り返らなかった。
石畳の向こうに消えていった凜とした背中に向かって花は精一杯声を張り上げると、空に向かってあげた右手を、そっと強く握り締めた。