熱海温泉 つくも神様のお宿で花嫁修業いたします
 

「杉下さんのことだって……本当は、すごく辛かったでしょう? 私はずっと、あの人に恋するあなたを見ていた。あの人に会う前に私を見ながらお化粧をするあなたは、本当にとても可愛い女の子だったわ」


 今となっては花は認めたくないことだが、杉下は花が初めて甘えることのできる異性だったのだ。

 子供の頃から『しっかりしなきゃ』と自分自身に言い聞かせ続けていた花は、他人に甘えることが苦手だった。


『困ったことがあれば、いつでも俺を頼ってほしい。どんなことでも出来る限り力になるし、俺は君の味方だよ』


 実際杉下は、本社出向で慣れない仕事に悪戦苦闘する花を、実に丁寧かつ優しくフォローしてくれた。

 結果、花はコロリと杉下に騙されたのだが、嘘に気づくまで花は杉下のことを、心から尊敬もしていた。

 杉下にしてみれば下心があって花に優しくしていたのだろうが、色恋沙汰に免疫のない花はその杉下の思惑に、気がつくことはできなかった。


『アンタは必ず地獄に落ちるわよ! いいえ、今すぐあの世に送ってやるから覚悟しな!!』


 あの日、奥さんに張り倒され糾弾されている花を、杉下は助けるどころか、庇うことすらしなかった。

 挙げ句の果てには後日の話し合いで、『彼女に言い寄られて断れなくて……』と、花にすべての責任を押し付けようとしたのだ。

 幸いメッセージの履歴が残っていたから助かったが、あのとき花は初めて杉下という男の本性を見た。

 別に……騙されていたことは、百歩どころか五百歩くらい譲って、許してもいい。
 
 恋に浮かれた自分がバカだったのだと、杉下を選んだ自分にも否があるだろう。

 ただせめて……真実を述べた上で一言でもいいから、フォローをしてほしかった。


『彼女を巻き込んでしまったのは自分だ。全部自分が悪かった。彼女は俺の被害者だ』


 杉下がそう言ってくれたなら、不実の恋ではあったが若さゆえに起きた恋の失敗談として、昇華することができたのだ。

 
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