熱海温泉 つくも神様のお宿で花嫁修業いたします
 


「あ……っ、あんな男のために泣くなんて……っ。絶対にしてやるもんかって、私……っ」


 花の声が濡れた。

 これまでずっと堪えていたものが溢れ出し、花は思わず両手で自身の顔を覆い隠した。


「も……、ヤダ……っ」


 それでもこれ以上は泣くもんか、と花は足掻く。

 母が亡くなってからというもの一度も涙を流したことがなかったのに、よりにも寄ってあんな男のために泣くなんて、情けないしまるで負けたような気持ちになる。


「……泣きたいときくらい、素直に泣いたらどうだ」

「え……?」

「泣くのを堪えて楽になるならいいが、堪えたところで気持ちが晴れるわけではないだろう」


 そのときだ。八雲が不意に、口を開いた。

 思わず顔を覆っていた手を避けた花は、声の主である八雲を涙で濡れた瞳で見つめた。


「俺に見られたくないなら隠しておいてやる。まぁ別に、俺はどちらでも構わんが……。とりあえず、今は泣きたいだけ泣いておけ」

(え……)


 次の瞬間、花はそっと八雲に抱き寄せられた。

 八雲は来ている着物の袖で花の顔を隠すようにして、小さな密室を作った。

 トクン、トクン、と花の耳に触れる鼓動は間違いなく八雲のものだ。

 お香を着物に焚きしめて香りを移しているのか、八雲からは品のある良い香りがする。

 
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