俺と、甘いキスを。
右京蒼士は両手をテーブルに置き、俯いて深く息をついた。そんな姿に、椿マリエは彼の腕に触れた。
「アタシは、本当に……」
「マリエ」
彼の低い声が、言葉を遮った。
「あのとき、お前の気持ちをわかっていなかった俺にも非がある。けれど、ここで知った嘘を許せるほど、俺はお前に優しくなれない。ごめんな、マリエ」
右京蒼士はそう言って、彼女の前に離婚届とペン、そして印鑑を置いた。
椿マリエの大きな瞳から、また涙の雫が一粒、流れ落ちた。
「もう、戻れないのね?」
「お前にはちゃんと話したことがなかったかもな。俺は十年前から心に決めた女がいる。それだけは譲れない。俺たちは繋がっているべきじゃない」
「その人が……「ハナ」さん?」
「ああ」
向かい合う美男美女の夫婦が別れ話をしている。この光景がまるでテレビのドラマを見ているような錯覚をするくらい、しっとりと艶めかしく感じた。
「蒼士、連絡がとれたぞ」
いつの間にか席を外していた右京誠司がスマホを持ってやってきた。右京蒼士はそれを受け取り、椿マリエに差し出した。
『マリエ、マリエなのか?』
と、スマホから聞こえる声に、私たちは耳を傾けた。
右京誠司が私たちに「マリエちゃんのご両親だよ」と教えてくれる。
彼女は緊張の箍が外れたのだろう、スマホの画面に向かって声を上げて泣き始めた。
私たちからは画面は見えないが、
「これから三人でちゃんと話し合い、家族としてもう一度出直そう」
という言葉が聞こえた。
「社会的に強くても弱くても、親というのは子供がどんなにいきがって反発しても、越えられない強い存在なんだよ。警察官の俺だって、農家の親父やおふくろを超えることはできない。椿マリエは「親」という存在を知った。もう、大丈夫だろう」
と、兄はゴホンッと小さな咳をした。