俺と、甘いキスを。

二十時。

終業時刻で一度帰宅した私は、もう一度研究所へやってきた。ノー残業デーのこの日、ここには一部の研究員が残っているだけで、事務所には誰もいないはずだ。

研究所の正門に警備員が門番をしている。私はその大柄な警備員に社員証を見せた。
「お疲れ様です。事務所にスマホを忘れたので取りに来ました」
そう言うと、彼は社員証と私を見比べて「どうぞ」と敷地内に入れてくれた。

スマホを事務所に忘れたのは、ワザとだ。足早に事務所の自分のデスクからスマホを取り出して、次の場所へと急ぐ。

二月の夜風は、まだ冷たい。
ツツジに囲まれた、ベンチのあるちょっとした中庭に大きな桜の木があり、強風で「ビュゥッ」と風鳴りを立てる。それが一層体に寒さを与えていくようだった。
事務所から敷地の奥へと進んだところにある、四角い建物。夜の暗さにぼんやりと浮かぶそれは、たった一つのドアの横に貼られたプレートで居所を表していた。

「右京研究室」

昼間に見かけた彼が、一人で研究室を管理している。
いつもは四角い建物だけで何もない殺風景な場所だが、今日に限ってはとても賑やかだ。
ドアの横にパイプ椅子が壁沿いに並び、その上には大きなダンボール箱が乗せてある。その中に、綺麗にラッピングされたカラフルな箱や袋が、どれもいっぱいに入っていた。
数年前からの毎年恒例の光景である。
翌朝にはそれらはなくなり、いつもどおりの研究所に戻っている。

しかし右京蒼士にバレンタインチョコを差し出した彼女たちには、これからホワイトデーまでの一ヶ月は緊張と不安で満ちた生活を送るらしい。
彼は毎年、自分にチョコを贈ってくれる彼女たちの中から代表者を一人だけ選び、ホワイトデーの三月十四日に感謝の気持ちを込めて、高級ホテルのディナーを振舞ってくれるというのだ。だから、チョコのほとんどに名前が記されているそうだ。
因みに、去年はどこかの研究室の四十代独身の女性研究員だったと聞いたことがある。その前の年は二十代の女性社員だったが、彼女はディナーの翌日に辞表を出して退職した。退職理由があれこれと噂になったが、結局真相は闇の中だ。

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