正しくない恋愛の始め方
 週明け、会社に出勤すると早速上司である課長に声を掛けることにした。まだ、出勤している人は少ない。楠木課長と、柴田主任、あと先輩の浦田さんだけだ。封筒を持って、席を立つ。課長の元まで行って声を掛けるが、その声が固くなってしまったのはご愛敬だ。


「課長、お時間よろしいでしょうか。」
「ん?ああ、午後でもいいか?午前中は出先に行かにゃならん。」
「よくないです、お時間取らせませんからすぐにお願いしたいです。」
「……おう、なら本当に10分だけな。そろそろ出なきゃだから。」

「一身上の都合により退職させていただきたいです。出来得る限り早く。」


 課長の机に、昨日用意した退職願を置く。空気が凍った、気がした。

 週末に父の元に行ってから、考えに考え抜いて出した答えだ。どう考えても、1000万なんて普通の会社員で働いていたら返せる額ではない。だから、キャバクラでも何でも働いて返すしかないと考えるのは自然の通りだった。なお、キャバクラは初めてではない。No.1を取れるほどの器量はないが、頑張ればそこそこ稼げるだろう。年齢で引っかからなきゃいいんだけど、と憂鬱になったが最悪は風呂《ソープ》に沈むしかない。


「ははは浜本!正気か!?か、考え直せ!」
「いえ、至って正常です。本気ですので受理お願いします。」
「ああ、くそっ、時間がない!柴田、浦田、固まってないで浜本を説得しろ!俺はもう行く。いいか、浜本。少なくともまだ受理していないからな、逃げるなよ?柴田、しっかりしろよ!今日の業務はなんとかしてやるから!」


 受理してくれないなら部長に持っていこうと退職願を返してもらおうとしたら、一歩先に課長が引っ手繰るように退職願を掴んで自分の内ポケットにねじ込んでいた。ぐしゃぐしゃになってしまったのではないだろうか、困る。まあ私は綺麗な状態で提出したから大丈夫だろう、受け取ってもらえたし。

 課長は本当に時間がないらしく、バタバタと走り去って行った。とりあえず、会社に籍を置いているうちはきちんと仕事を全うしようと、PCを立ち上げる。私は、教育関連の会社のシステム部門に所属している。いわゆるエンジニアだ。今日の業務は、と頭の中で仕事を確認していると、ガッと肩を掴まれた。


「紗衣ちゃん?何仕事しようとしてるの、柴田くんと話してきなさい。いいわよね?し、ば、た、しゅ、に、ん!」
「えっと、お話しすることはないかと……。」
「あるわよ。ちょっと、柴田くん!帰ってきて!」

「――浜本、小会議室で続きを話そう。人が出勤してきたし。浦田、小会議室使用中にしておいて。」


 浦田さんにガクガク揺さぶられながら、どう切り抜けようかと考える。父が借金をこさえまして、なんて荒唐無稽な話をどう説明したモノやら。

 やいのやいの浦田さんとやり取りしていたら柴田主任も参戦してきた。有無を言わさない圧力を感じながら、大人しく立ち上がり柴田主任の後をついて行った。
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