独占欲強めな御曹司に最愛妻として求められています~今夜、次期社長は熱烈求婚を開始する~
傷跡
雫は少しおとなしい性格をした、普通の子供だった。
母方の祖父が柔道の道場を開いていた関係で、物心ついた時から小学校卒業まで柔道を習っていた。
沙和子には「その華奢な体形で!」と驚かれたが、兄に言わせると筋は悪くなかったらしい。
忍耐強い性格や、姿勢の良さをキープできる体幹は柔道を通じて身に着いたと思っている。
父方母方とも男系家系で、従弟は皆雫より年長の男。兄の晴樹とも6歳年が離れいる。みな優しく、雫の面倒をよく見てくれた。
兄は柔道を続けていて、高校の時はインターハイまで行った実力者だ。
彼は6つ下の妹を激愛し、何かと睨みを利かせていたせいか、同世代の男子と必要以上に仲良くなる機会も無かったし、年長者に囲まれて育ったためか、同級生の男子はやけに幼く見えた。
高校は私立の女子高に進学した。友達も何人か出来、地味ながらも穏やかな高校生活を送っていたと思う。
それが崩れ去ったのが高校2年時のだった。
2年から化学の授業が始まった。担当教師は赴任3年目の男性教師でまだ20代後半。
女子校だけに若い男性教師は注目されるのだが、その教師は真面目な雰囲気で授業もわかりやすく、生徒達からの人気も高かった。
雫は化学の面白さに初めて気づき、みるみる嵌っていった。日常で起こる事、目にしていることが全て化学的に説明出来る事が新鮮だったし、単純に実験がとても楽しく感じた。
将来は研究者になるのも良いかもしれないとまで思い、毎日のようにその教師に質問に行った。兄のような感覚で話しやすかったのもある。彼も嫌な顔もせず答えてくれた。
しかし雫を見る視線に教師とは違うものが含まれていた事に雫は気づけなかった。
その日の放課後も、化学準備室で質問しているうちにすっかり時間が経ってしまっていた。
気が付けば、生徒の気配もない。
「もう、こんな時間ですね。先生ありがとうございました」
最終下校時間も過ぎそうになり、帰ろうとした雫は教師にいきなり腰を抱かれた。
「安藤さん、先生の事好きなんだろ。内緒で付き合おうよ。悪いようにはしないからさ」
耳元でそう言った教師は体重をかけてきて雫を床に押し倒した。
「…!?」
何が起こったのかわからなかった。
「君もそのつもりで毎日来てたんだろ?」
男の手が体をいやらしく這いまわる感覚を覚えた。一瞬の出来事だったが吐き気を伴うような嫌悪感と恐怖に支配される。
夢中で床に落ちた参考書をドアに向かって投げ
「…たすけて!」
と声を絞り出した。
幸運だったのはその時に化学準備室の近くを他の教師が通りかかったことだ。
ドアに物がぶつかる音と雫の声が届き不審に思い様子を見に来てくれたのだ。
それからの展開は早かった。
教師は突然退職した。実はこのような事は初めてでは無いらしく、前に勤めていた学校でも同様な事を起こしていたようだ。真面目な教師の顔は表向きに過ぎなかったらしい。
学校側としては対外的な事を気にして退職したことによって事を納めたかったようだ。
家族は激怒したが、とにかく忘れたい、無かったことにしたいという雫の気持ちを汲んで、これ以上事を大きくしないことを選んだ。
しかし、傷ついた雫に追い打ちをかけるようにすぐに事実と違う噂が流れ始める。
雫が教師を誘い関係を迫り、男女の関係になり、責任をとって教師が辞めさせられたというものだった。
雫は妊娠しているだの、他の教師ともそういう関係だったということまで、まことしやかに流れ始めた。
完全に雫は孤立し、多くなかった友人からもあからさまに距離を取られるようになった。それだけだけでは無くわざと雫に聞こえるように陰口を叩かれる事もあった。
噂の出所はわからない。だれかが面白がって作った話が尾ひれが付いて広がっていったのかも知れない。
だが、もう、そんな事はどうでも良かった。
噂の渦中でどんどん雫は孤立し、静かに心が削れていった。ただ、独り暗い海の底に沈んでいくようだった。心が物を感じようとするのをやめていく。
もうそろそろ、ダメかもと思うほど精神的にもギリギリの中、雫を持ちこたえさせたのは沙和子だった。
3年に進級するタイミングで初めて雫と同じクラスとなった沙和子が何故か声を掛けて来たのだ。それまで、ほぼ面識がなかったのに、不思議だった。
彼女は噂について詮索することも無かった。ただ普通の友人として接してくれた。性格も容姿も正反対のふたりだが、お互い一緒にいると居心地の良さを感じた。
多くの時間を共有し、やがて親友と呼べるような間柄になった。
『自分と一緒にいると沙和子まで変な目で見られる』と言ったことがあったが、沙和子は『ばからしい』と言って笑って一蹴した。
資産家の娘で校内でも一目置かれている沙和子が雫の傍らに居続ける事により、雫に対するあからさまな風当たりは弱まった。
お陰で一度は通えなくなるかもしれないと思った高校を無事卒業することが出来た。
しかし、この時の出来事は雫の心に深い傷跡を残した。
もう、あんな思いをしたくない。
雫は人との距離の取り方を変えた。
些細な切っ掛けで生まれた無責任な悪意は、独り歩きし始めると瞬く間に黒く膨張していく。 そして無責任のまま誰かを傷つける凶器になる。
最初の切っ掛けを与えてはいけない。
大学時代は意識的に友達を作らず、入社してからも沙和子や家族以外の人間とは距離を取って生活していた。雫なりの自己防衛だったのだ。
元々内気だった性格はさらに臆病になり、仕事ぐらいにしか自分に価値を見出せなくなってしまっていた。
「それに、あの時から男の人も苦手になってしまって。安心の為と柔道をやっている兄から護身用の動きを徹底的に覚えさえられました。奏汰さんを投げてしまったのは、酔いで体が無意識に動いてしまったせいで。改めて……すみませんでした」
マンションに帰宅し、軽く食事をとった後、リビングで奏汰が入れてくれたカフェオレを飲みながら、雫は話をした。
勤めて冷静に話したつもりだったが、上手く言葉が見つからなかったり、言い淀んでしまったりした。
それでも奏汰は雫の隣で辛抱強く聞いてくれた。
「……そうか」
話し終えた雫に奏汰は静かに言う。
「今日会った同級生はその時の話をしてたんだね」
「はい、当時は学校中の噂になっていたようですし、彼女は面白がって噂を流していた方だと思います」
「その同級生も、教師もクズだな」
口調は落ち着いているが、彼にしては珍しく言葉遣いが悪い。
この事を他人に話したのは初めてだ。沙和子はそもそもの事情を知って寄り添ってくれているし、誰かに話したいなどと思う事は無かった。
奏汰はどう思ったろう。いつまでも過去を引きずる暗い女と思っただろうか。事実ではあるが、そう思われたら少し辛い。
「いつまでもグズグズ引きずってるって、自分でも思うんですけど」
「しーちゃんは、悪くないだろ」
「奏汰さん」
「何一つ悪くない。そんな経験したら、人と一線引きたくなるのは当然だ……もしかして、君はそのことが原因で自分がつまらない人間だと思ってしまっている?」
そんな事は無いよ、と奏汰は真剣な顔で続ける。
「普段の丁寧な仕事ぶりを見ればわかる。まだ君の上司になって短いけど、いつも相手の事考えた行動をしてるから、統括部全体で君への信頼は絶大だし、無くてはならない存在だ――それに、こうやって俺の我がままを聞いて一緒に暮らしてくれてるのも、夕食を作ってくれるのも、俺の為を思ってくれてるからだよね。だから、俺は益々君の事が……」
少し間があった後、奏汰は優しく言った
「君は今のままで素敵な女性だと思うよ」
「……!」
自分を責める気持ちがどこかにあった。
可愛げのない性格も、人と上手く付き合えない事も、ただ過去を言い訳にしてるだけじゃないかと思うこともあった。
それを奏汰は事も無げに肯定してくれた。自分で認められなかった過去と今の自分を。
長い間薄暗い部屋に閉じ込めていた感情が涙になってあふれそうになる。
目の前の奏汰がぼやけて見える。
「――今更なんだけど、俺、しーちゃんに触ったり、その、色々してるけど……嫌じゃない?」
奏汰が遠慮がちに言う。男性が苦手になったいきさつを話したため、今までの自分がしてきた行動が気になってしまったようだ。
いつも自然過ぎる流れでスキンシップしてきたのに。戸惑う姿がかわいらしく感じてしまった。
「いえ……不思議と嫌じゃないです……恥ずかしいけれど。ふふ、本当に今更ですね」
正直な気持ちだ。涙目で何とか笑顔を作る雫を切なげに見た奏汰は
「じゃあ、遠慮なく……抱きしめて良い?」
言うと、両腕を大げさに広げてからゆっくり雫を抱き寄せた。
力は入っていないが、ふわりと逞しい腕の中に囚われたようだ。しかし、温かいその場所には安心感しかない。
「嫌な話をしてくれてありがとう……今日も肩が震えてた。辛かったよね」
ゆっくり雫の髪を撫でながら耳元で言う。
(どうして、この人はこんなに優しいんだろう)
その優しさにすべて委ねて甘えてしまいたくなる。
「……つ、辛かった。私、何も恥ずかしいことしてないのに。色々言われて。否定する勇気も無くて……そんな自分も嫌で、全部嫌で……」
家族の前でも心配かけないように、もう気にしていないように振舞っていた。
誰にも言えなかった、初めて零れた本音と共に目から涙の雫がポロリと落ちた。その後は堰を切ったように涙が止まらなくなってしまった
「う……うっ」
奏汰の胸に手のひらを押し付け顔を埋めて嗚咽を堪える。
彼は黙って雫の頭ごと抱きしめて撫で続けてくれる。もっと泣いていい、安心していいよ。と言うように。
雫は出続ける涙と感情を、その広くて温かい胸に吸い込ませ続けた。
どのくらいそうしていただろうか、疲れと安心感からか急に体が重くなり、強い眠気に襲われ、抗えなくなっていった。
「……だよ」
奏汰の温かい腕の中で意識を手放す時、彼が何かをつぶやき、頬をつたう涙の跡を唇で拭われたような気がしたが、夢だったかどうかわからない。