独占欲強めな御曹司に最愛妻として求められています~今夜、次期社長は熱烈求婚を開始する~
回想
 
 雫が羽野奏汰(はのそうた)と初めて接点を持ったのは、雫達が入社し半年ほどたった頃だった。

 だいぶ業務内容も把握出来、基本的な仕事を任されるようになっていたこの頃、雫のパソコンスキルや情報処理能力は卓越していたため、気が付けば回ってくる量も新人としてはかなり多いものだった。

 雫はそれらを淡々と片付けていった。この仕事は好きだ。データがうまく導き出せなくても計算式やマクロの組み方などシステム側の間違いの原因が必ずある。それを見つけるのが楽しくて、どんどんのめり込んでいった。

 一方、入社当時から雫は飲み会や個人的は誘いは断り続けて、職場でも必要以上に人間関係を広げようとしなかった。

 新人なのに愛嬌も無くつまらないと思われていただろう。
この頃から『アンドロイドの安藤さん』と呼ばれるようになっていたようだ。

 しかし、これは雫にとって望んていた状況だった。

 人と必要以上に近づくと辛い目に合う。ならば、最初から無駄に関わらない方がいい。


 

「安藤さん。今日も残業?」

 定時後パソコンにかじりついていた雫は、初め自分に声を掛けられた事に気づかなかった。

 意識を画面から引きはがして、声のする方を見ると、長身の男性が居室の入り口に立っている。

 咄嗟に居室内を見渡してみたが自分の他に残っている同僚はいなくなっていた。

「はい」と慌てて返事をする。

(なんで羽野さんが私の名前を知ってるの?)

 当時羽野奏汰は海外営業部の課長であり、雫の所属している経営戦略部とは直接の接点は無い。社内の有名人である彼を雫は知っていたが、向こうが雫を認識しているとは思いもよらなかった。

「最近、ずっと残業しているよね?」

 終業後だというのにくたびれた様子はまるでなく、朝の出勤時のような爽やかさで親しげに話しかけてくる。

 180センチはありそうな身長と細身のスーツが似合う均整の取れた体つき、顔のパーツも恐ろしく整っており、長い睫毛に鳶色の瞳が優しい印象だ。わずかに茶色がかった髪は自然に整えられている。

 常に柔和な雰囲気を湛えているが決して軽薄な訳ではなく、人を惹きつけるオーラがある。

 それは、彼がHanontecの現社長羽野一馬の長男であり、次期社長になるべく育てられた為だろう。

『王子様』という言葉が似合いすぎる男だ。

 そんな羽野が形の良い目を少し細めて笑っている。

「すみません。私の要領が悪くて、仕事に時間が掛かってしまって」

つい、謝ってしまう。

「君は要領悪くなんかないでしょ。あんまり毎日頑張り過ぎちゃうと体に悪いよ。いくら若いからと言ってもね」

「……もう少しで終わるので。終わったらすぐに帰ります」

「じゃあ、終わったらご飯食べに行かない?」

「……?」

 自分の認識がおかしくなければ今食事に誘われた気がする。

 将来の社長ともなれば接点の無い下っ端社員であろうと残業していたら軽く食事に誘うのだろうか。

「お腹すいてない?」と奏汰は続ける。

「いえ。すいて無いので結構です」

 内心動揺しながら冷静を装って答える。実はかなりお腹はすいているのだが。

 こうゆうやり取りは本当に苦手だ。

「うわ、断るのに全く躊躇がないね」

 羽野は大げさに反応してみせながらも気を悪くした様子は無く、むしろ楽しそうに笑っている。

 この様子から見るとやはり冗談で言ったのだろう。新入社員をからかうのはやめてほしい。

「うーん、からかっている訳じゃないんだけどね」

「……」

「じゃあ、これあげる、手、出して?」

 心を読まれた雫が黙ってしまっていると、羽野はいつの間にか雫の横に立ち、
上質そうなブラックスーツのポケットから何やら小さな包みを取り出した。

 雫の手の上にコロコロと3つ乗せる。キャンディのように包まれているそれは誰もが知っている海外メーカーの高級チョコレートだった。

「がんばってるご褒美。まぁ、貰い物なんだけどね」

「……あ、ありがとうございます」

 思わず少し声が弾んでしまった。

 海外営業部だけあって、出張者の土産物だろうか。チョコレートは大好きなので嬉しい。

 実はいつもデスクの引き出しに常備していて残業時ひとりになるとこっそり食べているのだ。

 といってもこんな高級なものでは無くコンビニで買える普通のチョコレートだが。

 手のひらの上に乗せられたチョコレートを眺めていると、上から視線を感じた。

 見上げると優し気に自分をじっと見つめている羽野と目があってしまい胸がドキリとする。

「これ食べて頑張って。あ、でもなるべく早く帰るんだよ」

 にっこり笑った羽野は雫の頭に手のひらでポンと優しく乗せると居室を出て行った。

「……なんだったんだろ、今の」

 雫は触れられた頭を片手で無意識に押さえた。

 たまたま残っていた新入社員がいたので、気まぐれで土産物をおすそ分けしてくれたってことだろう。

(でも残業続きだってなんで知ってたんだろう)

 ひとり残された雫はふぅとため息をつき、チョコレートの包みを一つあけて口に放り込む。

「……甘い」

 チョコレートの甘味が口の中から体中に広がっていく。

 雫は気持ちを切り替え残りの仕事に取り掛かった。



 

 羽野の「気まぐれ」はなぜかその後も続いた。

 何かと声を掛けてくるし、とにかくチョコレートをくれる。メーカーは様々だがどれも高級そうだ。海営はそんなに土産に事欠かないのか。

 今日はどんなチョコレートをくれるのか、いつのまにか楽しみにしている事に気づき雫は自分が卑しくて嫌になる。

 始めは彼の学生時代からの親友である崎本賢吾が沙和子にアプローチしているから、賢吾の為に自分に探りを入れて来たのかと思ったが、そんな素振りは一切なかった。

 一人で資料を倉庫に運んでいたら「手伝う」と笑顔と共に強引にファイルを奪い取り、棚に戻す手伝いまでしてくれた事もあった。

 雫は戸惑っていた。

 彼は崎本と共に常に女性たちの羨望の的だ。沙和子が言うには羽野の『特別』になりたくて玉砕覚悟でアタックする女性社員は後を絶たないらしい。
 しかし今のところ『特別』になれた女性はいないようだ。

 そんな羽野が雫を「チョコレートをあげる相手」と認識しているというだけでも面白くないと思う女性社員も少なくないだろう。

 しかも相手は地味な新入社員の自分だ。余計な事で注目されるのは本当にごめん被りたい。


――おとなしそうな顔して、気持ち悪い。

 ふと、過去の記憶が蘇り、胸に冷たい石の存在を感じ、息が苦しくなる。

 もう、嫌なのだ。あの時のように悪意や好奇の目に晒されるのは。


 だが、雫の心配は程なくして解消することになった。

 羽野のシアトルへの赴任が決まったのだ。

 ハイテク産業の盛んなシアトルに北米に2つ目となる工場と営業拠点を立ち上げる事になり、そのプロジェクトの中心を担う為だ。今後の海外展開の礎となる重要プロジェクトであり、目途がつくまで5年はかかると言われていた。

「親の七光り」などどいう言葉は微塵も思い浮かばない位、若いながらも実力で幾つもの難しいプロジェクトを成功さえてきた羽野だ。5年でキッチリ職務を果たす事だろう。



 これで、気まぐれに構われる事も無くなる。

(チョコレートを貰えることも無くなるけど、ね)

 ほんの少し心に浮かんだ別の寂しさに雫は気づかないふりをした。





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