さよなら虎馬、ハートブレイク
「私としたことが」
一生の不覚だった。
一度下校した校舎に何かを取りに戻るなんて、試験前の教科書でもない限りやったことはない。それでも今日は、高校生生活始まって初の連絡先交換に成功した日。浮き足立って鞄じゃなく、机に押し込んだのは。
何度もそれが夢じゃないかを確認するためだった。
下駄箱に戻る道中、スマホを開いて今一度表示された文字を自分の目に焼き付ける。他の誰かにとって一見当たり前のようで実は当たり前ではないことが、私の場合、慣れるのにすごく時間がかかるみたい。
だって、…彼女は初めての、
そこではたと、生徒昇降口に見慣れた人物を発見して、私は立ち止まった。
「え、先輩?」
私の声に、下駄箱に背中を預けていた先輩が、顔だけをこちらに向ける。へらり、と気の抜けるような笑顔は、私を捉えるとやっと体を起こした。
「何やってんですか。あ、さては先輩も忘れ物」
「そうそう、俺もラブレター忘れてねってバカ」
大して面白くもないノリツッコミに顔を顰めたところで、黒い何かを投げて寄越される。慌ててキャッチすると、それが生徒手帳だとわかった。
「忘れ物」
「…え。ああ、ありが…っていや、これ届けにわざわざ戻ってきたんですか? 明日でも良かったのに」
「今日じゃなきゃ意味がない」
「え?」
突然、私の前まで踏み込んできた先輩に真摯な目で見つめられて、ぐっと喉が収縮する。
「オズちゃん。…目、閉じて」
「えっ…な、なんで。やだ!」
「こういう時黙ってヒロインは目を閉じんかい」
「ふむっ!」
真っ向から何かを押し付けられ、世界が一気に暗くなる。なんだこれこわい! 黒くて柔らかくてもふもふしてる、と恐る恐る目を開くと、それは。
…さっきゲームセンターでガラス越しに見た“黒猫さん抱き枕”、だった。
「オズちゃん、誕生日おめでとう」
「…へっ…?」
たぶん、今年一番間の抜けた声が出た。その瞬間になってようやく、今朝母としたやり取りが走馬灯のように駆け巡り、その全部の意味が腑に落ちる。
偶然にも私が鞄をぶちまけて、その生徒手帳を見て先輩が誕生日を知ったことも。
だからわざわざ学校まで戻ってきて、私のために黒猫さんを渡しにきてくれたことも。