さよなら虎馬、ハートブレイク
 

 普段しないマスカラは睫毛がばさばさして気になる。少し触れただけで指先にグロスがついて、慌ててぴゃっと目をこじ開ける。見渡す限り浴衣で溢れているわりに、私と同じ色の浴衣はいなくて、ああもうこれ絶対チョイスしくじった。

 だめ、もう、緊張する。今来たとこだけど帰りたい。だってそもそも先輩に浴衣着るとか言ってないしこんな見た目じゃ気付いてもらえないんじゃないか? そうだそうに違いない。

 自分の中でそう勝手に納得し、踵を返そうとカラン、と下駄を鳴らした時。手にした巾着の中でスマホが振動して慌ててそれを取り出す。


 続けて画面に浮かんだ「藤堂先輩」の文字を見ると口から心臓が飛び出そうになった。


「………も、もしもし」

《あー、やっぱりそれか》
「ん、へ?」
《鬼さんこちら》


 手の鳴る方へ。

 受話器の向こうから届く指示、そしてぱちん、と手を叩く音に振り向くと、そこに。
 時計台の石段に一段上がって、受話器片手に手を挙げる。


 そこに、藤堂先輩の姿があった。


「ごめん、いつもと雰囲気違いすぎてわかんなかったから電話した。黒髪だしオズちゃんの感じからして和服似合うだろうと思ったけどこれは、うん、予想以上」

 腕を組み、ちらりと左手から覗くスポーツウォッチは今日も前と違ってて。先輩は前の時と似たオーバーめのTシャツに黒パンツって至ってシンプルな格好だったけど、その手が口元を抑えて嬉しそうに見てるから、やめて、と手でなんとなく視界を塞ぐ。

 …なんか。なんか、なんか、なんか。前も私服見たのに、終業式ぶりって会わなかった十日《ブランク》があるせいか、かっこいいに拍車がかかってる、気がする。いや絶対かっこよくなってる、って顔を逸らしてどぎまぎしていたら、視界を塞いだ私の手からスイ、と先輩が横から顔を出した。

 で、よく見せて、って言うから、手を下ろして恐る恐る先輩を見上げる。


「…化粧してる」

「お、お母さんが無理やり」
「白似合うね」

 赤や青、黄色にピンク。色とりどりの浴衣を纏う人々の中、同じ色がいなくて浮いていないかただそれだけが不安だった。白地に牡丹の花が散りばめられた私の浴衣、そして椿の髪飾りに少し手を翳した先輩は、顔を傾けてやわらかく微笑む。


「綺麗すぎて見違えた。こっちが緊張する」


 行こ。

 やんわり、団扇を差し伸べられ、私はその端にちょん、と、手を触れる。たったそれだけのこと。それっぽっちのことなのに。
 この人の隣にいるだけで世界が違って、くすんでいた情景が、色とりどりに映えて観える。

 チークはたぶん、塗ってきて良かった。そうでもなければ、この頬に染まった色に、他の言い訳を乗せることなんてきっと、叶わなかったから。


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