春色カレンダー ~31日の青春~
3月26日(木) 氷と電気
昨晩は一睡も出来なかった。
昨日鹿江から送られてきた一枚の写真は俺の心を一瞬で凍らせた。
西が爽乃の頬に手を当てて触れそうなくらい顔を近づけていて、もう片方の手は彼女の両手を握りしめている写真───。
鹿江は大興奮で電話してきた。
『これ撮る時、震える手を抑えるのが大変だったよ!昨日西が働いてる100均行ったらいなくて聞いたら休憩してるって言われたから自販の方行ってみたらこれだぜ!!てか、なんで動画にしなかったんだろ俺~!』
鼻息がすごい。きっと携帯に唾を飛ばしているだろう。
『西ってバスケ部だったじゃん?俺達高校もスポーツ推薦で一緒だったんだけどさ、西のやつ一年の時は普通に彼女いて別れてまた別の女と付き合ってってしてたのに、二年になってバイト始めたすぐ後から、好きな人出来たからって告られても全部断ってんの!しつこく問い詰めたら『バイト先で親切にしてくれた多分同学年のお客さん』って白状してさ。あの子のことだったんだな。』
心を包む氷が更に厚くなる。もう中に何が凍っているのかも見えないくらいだ。岩のように固くなって、燃やしても溶けないのではないだろうか。騒がしかった心の中の自分も一緒に凍ってしまったようだ。
俺が爽乃に出逢うずっと前から西は彼女のことが好きだったんだ───。公園で会った時、爽乃は西のこと知らないみたいだったけれど・・・。悠長に彼女との微妙な距離感を楽しんでいる場合じゃなかったのだ。
『で、この後、熱かったんだぜ!なんと』
もう限界だった。その先を聞いたら心がそれを包む岩のような氷ごと跡形もなく砕け散ってしまいそうだった。
『悪い。親呼んでるから切るわ。』
一方的にそう言って通話を終了し、携帯の電源を切ると壁に投げつけた。そんな行動をとったのは初めてで、自分自身に驚いた。ベッドに倒れるように寝転ぶ。
どうしてもっと早く爽乃に好きだと伝えなかったんだろう・・・。告白するタイミングとか場所とか言葉とか、そんなもの何でもよかった。電話でもメッセージでもいいからただ『好きだ。』の3文字を言葉にすればいいだけだったのに。
いつの間にか頬に涙が流れていて、あとからあとから止めどなく流れるそれは言葉通り枕を濡らした。こんな風に泣くのも初めてだ。俺はこんなにも彼女のことが好きだったんだ。
出逢ってから今まで見てきた彼女の表情や交わした言葉、初めて感じだ感情を思い出す。その一つ一つが俺にとってかけがえのないものだった。今までの18年と数ヶ月の人生が霞んで見えるくらい、爽乃と過ごしたこの一ヶ月は濃かったのだ。
今日は朝も昼も食べていない。親は珍しく起きてこなった俺の体調を心配しながら仕事に出かけていった。鏡を見ると目が腫れてひどい顔だ。何日か前にはこの鏡に幸せに緩んだ顔が映っていたのに。
本当は今日爽乃に告白するつもりだった。それなのにもう携帯を触る気にすらなれない。見つめ合う爽乃と西は美男美女でとても似合っていた。西は見た目だけでなくスポーツ万能だし、勉強だって『カヤには敵わないよ。』とか言いつつかなり出来た。キャンプとかアウトドアな趣味もあるのに、ゲームも色々やっていたし、音楽にもお笑いにも詳しくて話が豊富だった。影山と同じ生徒会に入っていて、あいつの周りには自然と人が集まっていたのに、皆の輪に入れない俺のことも気にかけてくれていた。常に冷静だけれど、話すとユーモアがあって面白くて、欠点なんか一つも見当たらない。
きっと西と付き合った女子は幸せになる───爽乃も。俺みたいな味気ない男と付き合うよりずっと。だから、俺は身を引いた方がいいんだろう。彼女のことが好きだから、幸せになってほしいから。俺はこの一ヶ月間彼女にすごく幸せな思いをさせてもらった。それで充分だ。鹿江が言うように俺はただのガリ勉だし、俺みたいなつまらない男が彼女と付き合いたいなんて贅沢言っちゃいけない。
涙を出し過ぎて体は乾ききり、岩と化した心も砂漠のように乾いて、すっかり投げやりになっていた。
顔もひどいし出かける気なんて起きないけれど、昨日弟が珍しく派手に嘆いていたのを思い出した。親がいつも弟にネットで買っている乗り物の雑誌が今回は売り切れて買えなかったとか言ってたな。本屋で買ってこようか。
大型スーパーの中にある本屋でお目当ての乗り物雑誌を手にする。豪華な付録がたくさんついているから人気なのか、本屋にもあと2冊しか残っていなかった。どうせ毎号買っているのだから、定期講読すればいいのではないかと思う。雑誌から顔を上げた時、俺の目がある雑誌の表紙をとらえた。ペンギンの写真が大きく使われている表紙だった。反射的に爽乃の顔が頭に浮かび、化石のようになっていたはずの心が痛みを感じた。水族館での彼女の穏やかな横顔を思い出して、体の内側から音を立ててボロボロと崩れそうになる。とにかくその場から離れたくなって雑誌を持ったまま店を出そうになった。
本屋の万引き感知ゲートの一歩手前でグッと肩を掴まれる。
「カヤ!」
ハッと振り返ると影山だった。
「・・・本当に助かった。危うく捕まるところだったよ。」
スーパー内のファストフードで影山と向かい合う。
「ううん。私こそ付き合わせちゃって。ここのクーポン、31日までだからさ。アプリのより紙のクーポンの方がお得だし。」
影山はコーヒーを一口飲んでから言った。食欲はなかったけれど彼女の手前ポテトに手を伸ばす。
───31日。
もうすぐ3月が終わる。楽し過ぎた、嬉し過ぎた、幸せ過ぎた3月が。きっともう爽乃と会うことはないだろうけれど、俺は今年の3月のことを一生忘れないだろう。
「・・・カヤ。」
「え?」
「何かあったんならお姉さんが話聞くよ。」
そう言って肩をポンポンとしてくる。
「辞めろよ。別に何もないから。」
そう言って自分の肩にある影山の手を掴む。その時、影山がガラスの壁の向こう側を見てハッとした顔をした。
彼女の視線の先を辿ると、爽乃が妹と一緒に立ってこちらを見ていた。
「・・・!!!!!」
彼女の姿を見た途端、凍ったはずの心の中から熱いものが溢れ出して、あっという間に氷を溶かしていった。
彼女は俺と目が合うと慌てて踵を返して走っていってしまった。俺の尻は椅子に貼り付いたままだ。
「追いかけなくていいの?」
影山がはっきりとした声で言う。
「追いかけるも何も、そんな権利は俺には・・・。彼女は西と付き合うんだよ。」
「よくわからないけどさ、それ、彼女に聞いたわけ?西のこと好きだから付き合うよって。」
「そういうわけじゃないよ。でも西は彼女のこと二年も好きだったんだ。それに俺なんかより西の方が・・・。」
そう、俺があいつに勝っていることなんて少し勉強が出来ることくらいだ。そんなもの、何の役にも立たない。顔も地味だし勉強ばかりして部活も入らず大した趣味もなく、話すのも下手で恋愛経験もない。西や影山と違って俺には何もない。
「本当にそれでいいの?目がそんなになるまで泣いたのに?」
影山が諭すような口調で言う。
「いいんだよ。これで。」
俯きながら塩気のないポテトに手を伸ばすと突如その手に痛みが走った。
「いてっ。」
影山が俺の手を叩いたようだった。驚いて見上げると彼女はいつも通りの落ち着いた表情で感情が読み取れない。
「好きだった長さなんて関係ないでしょ。それに、誰と一緒にいたら自分が幸せか決めるのは彼女。諦めるならちゃんとぶつかってからにしないと後悔するよ。傷付くの怖がってたら本気の恋なんて出来ないと思う。」
「!!!」
影山のその言葉で体に電気が走ったようにビリっとした。俺は弾かれたように椅子から立ち上がり彼女に頭を下げた。
「・・・ごめん、影山。これ、全部食ってくれ。」
「美味しく頂くよ。太ったらカヤのせいだからね。」
彼女はふっと笑って言った。
「ありがとう。影山。」
俺は爽乃の姿を探しながらスーパーの出口めがけて走った。
「あーあ、人のことだったら何とでも言えるのに、自分のこととなると全然駄目だな、私・・・。」
俺が走り去った後、影山がポテトを食べながら寂しげな表情でそんなことを呟いたなんて俺は知る由もなかった。
昨日鹿江から送られてきた一枚の写真は俺の心を一瞬で凍らせた。
西が爽乃の頬に手を当てて触れそうなくらい顔を近づけていて、もう片方の手は彼女の両手を握りしめている写真───。
鹿江は大興奮で電話してきた。
『これ撮る時、震える手を抑えるのが大変だったよ!昨日西が働いてる100均行ったらいなくて聞いたら休憩してるって言われたから自販の方行ってみたらこれだぜ!!てか、なんで動画にしなかったんだろ俺~!』
鼻息がすごい。きっと携帯に唾を飛ばしているだろう。
『西ってバスケ部だったじゃん?俺達高校もスポーツ推薦で一緒だったんだけどさ、西のやつ一年の時は普通に彼女いて別れてまた別の女と付き合ってってしてたのに、二年になってバイト始めたすぐ後から、好きな人出来たからって告られても全部断ってんの!しつこく問い詰めたら『バイト先で親切にしてくれた多分同学年のお客さん』って白状してさ。あの子のことだったんだな。』
心を包む氷が更に厚くなる。もう中に何が凍っているのかも見えないくらいだ。岩のように固くなって、燃やしても溶けないのではないだろうか。騒がしかった心の中の自分も一緒に凍ってしまったようだ。
俺が爽乃に出逢うずっと前から西は彼女のことが好きだったんだ───。公園で会った時、爽乃は西のこと知らないみたいだったけれど・・・。悠長に彼女との微妙な距離感を楽しんでいる場合じゃなかったのだ。
『で、この後、熱かったんだぜ!なんと』
もう限界だった。その先を聞いたら心がそれを包む岩のような氷ごと跡形もなく砕け散ってしまいそうだった。
『悪い。親呼んでるから切るわ。』
一方的にそう言って通話を終了し、携帯の電源を切ると壁に投げつけた。そんな行動をとったのは初めてで、自分自身に驚いた。ベッドに倒れるように寝転ぶ。
どうしてもっと早く爽乃に好きだと伝えなかったんだろう・・・。告白するタイミングとか場所とか言葉とか、そんなもの何でもよかった。電話でもメッセージでもいいからただ『好きだ。』の3文字を言葉にすればいいだけだったのに。
いつの間にか頬に涙が流れていて、あとからあとから止めどなく流れるそれは言葉通り枕を濡らした。こんな風に泣くのも初めてだ。俺はこんなにも彼女のことが好きだったんだ。
出逢ってから今まで見てきた彼女の表情や交わした言葉、初めて感じだ感情を思い出す。その一つ一つが俺にとってかけがえのないものだった。今までの18年と数ヶ月の人生が霞んで見えるくらい、爽乃と過ごしたこの一ヶ月は濃かったのだ。
今日は朝も昼も食べていない。親は珍しく起きてこなった俺の体調を心配しながら仕事に出かけていった。鏡を見ると目が腫れてひどい顔だ。何日か前にはこの鏡に幸せに緩んだ顔が映っていたのに。
本当は今日爽乃に告白するつもりだった。それなのにもう携帯を触る気にすらなれない。見つめ合う爽乃と西は美男美女でとても似合っていた。西は見た目だけでなくスポーツ万能だし、勉強だって『カヤには敵わないよ。』とか言いつつかなり出来た。キャンプとかアウトドアな趣味もあるのに、ゲームも色々やっていたし、音楽にもお笑いにも詳しくて話が豊富だった。影山と同じ生徒会に入っていて、あいつの周りには自然と人が集まっていたのに、皆の輪に入れない俺のことも気にかけてくれていた。常に冷静だけれど、話すとユーモアがあって面白くて、欠点なんか一つも見当たらない。
きっと西と付き合った女子は幸せになる───爽乃も。俺みたいな味気ない男と付き合うよりずっと。だから、俺は身を引いた方がいいんだろう。彼女のことが好きだから、幸せになってほしいから。俺はこの一ヶ月間彼女にすごく幸せな思いをさせてもらった。それで充分だ。鹿江が言うように俺はただのガリ勉だし、俺みたいなつまらない男が彼女と付き合いたいなんて贅沢言っちゃいけない。
涙を出し過ぎて体は乾ききり、岩と化した心も砂漠のように乾いて、すっかり投げやりになっていた。
顔もひどいし出かける気なんて起きないけれど、昨日弟が珍しく派手に嘆いていたのを思い出した。親がいつも弟にネットで買っている乗り物の雑誌が今回は売り切れて買えなかったとか言ってたな。本屋で買ってこようか。
大型スーパーの中にある本屋でお目当ての乗り物雑誌を手にする。豪華な付録がたくさんついているから人気なのか、本屋にもあと2冊しか残っていなかった。どうせ毎号買っているのだから、定期講読すればいいのではないかと思う。雑誌から顔を上げた時、俺の目がある雑誌の表紙をとらえた。ペンギンの写真が大きく使われている表紙だった。反射的に爽乃の顔が頭に浮かび、化石のようになっていたはずの心が痛みを感じた。水族館での彼女の穏やかな横顔を思い出して、体の内側から音を立ててボロボロと崩れそうになる。とにかくその場から離れたくなって雑誌を持ったまま店を出そうになった。
本屋の万引き感知ゲートの一歩手前でグッと肩を掴まれる。
「カヤ!」
ハッと振り返ると影山だった。
「・・・本当に助かった。危うく捕まるところだったよ。」
スーパー内のファストフードで影山と向かい合う。
「ううん。私こそ付き合わせちゃって。ここのクーポン、31日までだからさ。アプリのより紙のクーポンの方がお得だし。」
影山はコーヒーを一口飲んでから言った。食欲はなかったけれど彼女の手前ポテトに手を伸ばす。
───31日。
もうすぐ3月が終わる。楽し過ぎた、嬉し過ぎた、幸せ過ぎた3月が。きっともう爽乃と会うことはないだろうけれど、俺は今年の3月のことを一生忘れないだろう。
「・・・カヤ。」
「え?」
「何かあったんならお姉さんが話聞くよ。」
そう言って肩をポンポンとしてくる。
「辞めろよ。別に何もないから。」
そう言って自分の肩にある影山の手を掴む。その時、影山がガラスの壁の向こう側を見てハッとした顔をした。
彼女の視線の先を辿ると、爽乃が妹と一緒に立ってこちらを見ていた。
「・・・!!!!!」
彼女の姿を見た途端、凍ったはずの心の中から熱いものが溢れ出して、あっという間に氷を溶かしていった。
彼女は俺と目が合うと慌てて踵を返して走っていってしまった。俺の尻は椅子に貼り付いたままだ。
「追いかけなくていいの?」
影山がはっきりとした声で言う。
「追いかけるも何も、そんな権利は俺には・・・。彼女は西と付き合うんだよ。」
「よくわからないけどさ、それ、彼女に聞いたわけ?西のこと好きだから付き合うよって。」
「そういうわけじゃないよ。でも西は彼女のこと二年も好きだったんだ。それに俺なんかより西の方が・・・。」
そう、俺があいつに勝っていることなんて少し勉強が出来ることくらいだ。そんなもの、何の役にも立たない。顔も地味だし勉強ばかりして部活も入らず大した趣味もなく、話すのも下手で恋愛経験もない。西や影山と違って俺には何もない。
「本当にそれでいいの?目がそんなになるまで泣いたのに?」
影山が諭すような口調で言う。
「いいんだよ。これで。」
俯きながら塩気のないポテトに手を伸ばすと突如その手に痛みが走った。
「いてっ。」
影山が俺の手を叩いたようだった。驚いて見上げると彼女はいつも通りの落ち着いた表情で感情が読み取れない。
「好きだった長さなんて関係ないでしょ。それに、誰と一緒にいたら自分が幸せか決めるのは彼女。諦めるならちゃんとぶつかってからにしないと後悔するよ。傷付くの怖がってたら本気の恋なんて出来ないと思う。」
「!!!」
影山のその言葉で体に電気が走ったようにビリっとした。俺は弾かれたように椅子から立ち上がり彼女に頭を下げた。
「・・・ごめん、影山。これ、全部食ってくれ。」
「美味しく頂くよ。太ったらカヤのせいだからね。」
彼女はふっと笑って言った。
「ありがとう。影山。」
俺は爽乃の姿を探しながらスーパーの出口めがけて走った。
「あーあ、人のことだったら何とでも言えるのに、自分のこととなると全然駄目だな、私・・・。」
俺が走り去った後、影山がポテトを食べながら寂しげな表情でそんなことを呟いたなんて俺は知る由もなかった。