『封魔の城塞アルデガン』

第6章:火口その1

 ゴルツとアラードが辿りついたのは、それまでとは全く様子が異なる場所だった。

 これまで洞窟の広がった部分はいくつもあったが、この場所はずばぬけて広かった。地面にはいくつもの亀裂が走り、赤い光が漏れ出ていた。広大な空間は硫黄の臭いと凄まじい熱気に満ちていた。
 空洞の地面の真ん中には楕円形の火口が口を開けていた。地面からの盛り上がりは人の背の二倍程度と低かったが、広さは空洞の地面の半ば近くを占めていた。硫黄を含んだ煙がたえず立ち込め、紅蓮の炎が間欠的に吹き上がった。

 その煙と炎を背にして、人影が一つ火口の縁に立っていた。
 炎を背にしているため、見上げるアラードの目には顔も姿も判然としなかった。彼は人影の顔の部分に目をこらした。
「目を見てはならぬ!」
 だしぬけにゴルツがいった。だが、それに応えたのはアラードではなかった。
「お久しぶり、私を見捨てたお父様」
 女の声だった。それもていねいな。にもかかわらず、その毒々しさにアラードは身を震わせた。おかげでその言葉の意味を理解するのが一瞬遅れた。

「……お父様? まさか、閣下!」
「お父様。どうしてラルダと呼んで下さらないの? 哀れな娘の名前など二十年の間にお忘れになった?」
 炎がまた吹き上がり、人影は黒々とした残像と化した。その残像の顔の部分に緑色の双眸が燃え上がった。
「わかっているわ。お父様は私を滅ぼしに来たのよ。娘などではない、ただの化物として!」
 人影は火口の縁から地面にふわりと降り立った。

 アラードとさして年の違わぬ娘のようだった。いや、本来ならそうであったはずの姿だった。
 だがその姿はやつれ、苛まれ、荒んでいた。つややかな美しさを誇ったであろう漆黒の髪はおどろに振り乱され、毒蛇さながらにねじれ、のたうっていた。父親によく似た緑の炎のような強い意志を秘めた目は、しかし毒々しい憎悪に歪んでいた。異様に赤い唇からは鋭い牙がこぼれていた。
 間違いなく吸血鬼だった。
 だが、ガモフとはまったく違っていた。彼はからっぽだった。本来の人格も記憶も失われた動く死体でしかなかった。
 ラルダと名のる目の前の吸血鬼は明らかに人格を持っていた。だがそれは彼女のものでありながら、悪意にねじれ歪んでいるのがアラードにさえ感じ取れた。彼はゴルツがいわんとした言葉の意味をようやく悟った。そしてゴルツがここへ来た目的も。

「……閣下は最初からご存じだったんですか。アルデガンに侵入した魔物の正体を!」
「そなたなぜ二十年もたった今になって現れた!」
 アラードには応えず、ゴルツはラルダを油断なく見据えながら錫杖を掲げた。
「仮にも神に仕える者として修行をした身でなんたるありさま。この世での妄執から解かれ、神の御元へ還るがよい!」
 瞬間、ラルダの全身から目に見えんばかりの凄まじい怒気が吹き出した。
「私に神などという言葉を吐くな!」
 牙をむき出しラルダは叫んだ。だが次の瞬間、その目がすっと細められた。
「私を解呪しようというならば神の力にすがらねばならぬはず。お父様は私に尊師アールダにちなんだ名を与えた。私もその名に恥じぬよう、尼僧として修行を積んだわ。
 その私がこの洞窟で二十年もの間どんな目にあってきたのか、それを知っても縋れるというなら縋ってみせるがいい!」

 長い話が始まった。無残な、忌むべき話が。


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「もうすぐ地上だぞ」
 若き戦士ローラムがいった。彼は同期の戦士二人とともに前列に立っていた。背が高く貴公子然とした風貌と勇敢な性格ゆえに彼はこのパーティのリーダーに祭り上げられていた。

 その後ろに僧侶呪文を極めるのも目前というラルダとそろそろ高位魔術士になろうというグロスが続き、その背後をさらに三人の戦士が守っていた。若さゆえに経験こそ不足しているものの、かなりの力を持つパーティだった。
 彼らは腕試しのため洞窟に潜り、多くの亜人と三匹の魔獣のみならず、一体の巨人までも倒して帰還するところだった。誰もが予想外の戦果に高揚していた。

 だが通路を曲がったところで、彼らは行く手に長身の男が一人うつむいて立っているのに出会った。
「誰だ」リーダーのローラムが誰何した。
 くく、と嘲笑う声が返った。
「ここは我が住みか。誰何するのはこちらであろう?」
 男は顔を上げた。茶色の髪とあご髭の中年の男だった。細身の顔は本来整って見えるのが当然の造作だった。
 だが造作が少しづつ、微妙に歪んでいた。その結果凶々しくも嗜虐的な表情が貼りついていた。
「招きもなく土足で踏み入り狼藉を働いたのだ。ただで帰すわけにはゆかぬな」
 にいっと歪められた口元から白い牙がむき出された。
「吸血鬼か!」誰もが戦慄した。全員が吸血鬼との遭遇は初めてだった。年長者たちからその恐ろしさをくり返し聞かされ、つい先頃には吸血鬼との戦いは可能な限り避けろとのふれが出されたばかりだった。
 だがローラムは命じた。
「敵は一人だ。取り囲んでいっせいに斬り倒せ」
 戦いの高揚が残る戦士たちはそれに応じた。
「闇の中で我に刃を向けるか」
 嘲笑った男が片手を上げると、闇がだしぬけに濃密さを増し、六人の戦士を丸ごと呑み込んだ!
「いかん!」グロスが明かりの呪文を唱えた。しかし敵の魔力が呪文を無効化した。
「ラルダ! 解呪の技は?」「私、まだ使えない!」
 二人の術者が焦る間に、剣の打ち合う音は唐突にやんだ。

 闇が薄れたとき、男を取り囲んでいた戦士たちは全員倒されていた。誰もがおのおの自分の剣を体に突き立てられていた。
「他愛のない。余興にもならぬ」男は鼻を鳴らし、喉を斬り裂かれて虫の息のローラムに牙を寄せた。
「ローラム!」
 思わず叫んだラルダの声を聞き付け、男が目を上げた。
「ほう、これは」
 男は唇を歪めた。例えようもなく邪悪な笑みだった。
「この若造がよほど気になるとみえる。ならばこやつのこの命、汝に托すとしよう」
 ラルダに歩み寄る男の目が妖しく光ると、ラルダは体がすくみ動けなくなった。
「た、助けを!」グロスは後じさり、その場から駆け去った。
「だめよ、吸血鬼に襲われた者の救助は禁じられたばかりじゃない! グロスーっ!」ラルダの叫びが後を追った。
「ふん、そんな掟ができたか。つまらぬことだ」
 男はまた鼻を鳴らした。
「ならばこの知らせを聞いても人間どもが本当になにもせぬか、見せてもらうとしよう」

 男はラルダの前に立ち、顎に手をかけ上を向かせた。ラルダは男を睨みつけた。恐怖に挫けそうな心に鞭打って。
「美しい。意志も強い」
 舌舐めずりせんばかりの囁き声がいった。
「汝は殺さぬ。吸い殺してしまえば汝の魂は失われ、肉体のみが空白のまま蘇えるばかり。それではつまらぬ」
 喉に口を寄せた男が、ラルダの絶叫をよそにほくそ笑んだ。
「この香しい血を吸い残すのは惜しいが、それだけ楽しませてもらわねばな……」
 牙がずぶりと喉に突き立てられた瞬間、ラルダの意識もついに断たれた。
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