桃色のドラゴンと最強神~ドラゴン・ノスタルジア ~∞クスコ∞

自分へのレクイエム

「どうしても、岩時祭りに行くから」

 ────バンッ!

 律は家のリビングで、テーブルを叩きながら必死に母を説得していた。

 どんな風に伝えれば、自分の気持ちを母親にわかってもらえたのだろう?

「私、今日だけは、さくら達と遊びたいの」

 岩時本祭りは、7年に1回だけ。

 これを逃すと、あと7年待たなければならない。

 岩時神楽の『音楽祭』は今日を逃すともう、7年後までやって来ない。

 ただ、ほんの1~2時間、近所のお祭りに行きたいと言っているだけなのに。

 さくらや、結月や、凌太や、紺野と楽しく遊びたいだけなのに。

「ダメに決まってるでしょう! ピアノの練習をやらないつもりなの?」

「寝る前にもちゃんとやるし、明日は今日の分をまとめてやるわ! 今まで1度だって約束を破らなかったんだもの、今日くらい行かせてくれたっていいじゃない!」

 母親は鬼を連想させるような形相で、腕組みをしながら首を横に振った。

 その表情には有無を言わさぬ、絶対的なものがあった。

「甘えたこと言わないで! いつかあなたが、こんな事を言い出すと思ってたわ。毎日4時間の練習をこなさなければ、技術力が格段に落ちるのよ。あなたは今が一番大切な時だし、取り返しがつかなくなる」
「だから何なの?! 私は一体いつ、友達と遊べるの?! 私、毎日必死に頑張ってたじゃない! 今日のお祭りに行けなかったら私……ピアノなんてやめてやるわ!」

「何ですって?」

「大人になったってどこへも行けないまま私は、ピアノばかり弾かされてるの?! 冗談じゃないわ!! 私はママのロボットじゃないのよ!!」

 いつ、好きなようにさせてもらえる?

 自分で考え、計画し、自由自在に時間を使えるのは、一体いつ?

 決して、毎日のピアノ練習が、楽しくないわけじゃない。

 自分が上達していくのを体感するのは楽しいし、やめたいとは思わない。

 いい結果を残せた時などは、母親をはじめ大人達から、きちんと努力を褒めてもらえる。

 優れた才能を持っているので、律は光り輝けて、認めてもらえた。

 だけど、今日だけは母の言う通りにしたくない。

 母親は腕組みをしながら、イライラした様子でトントンと、指で自分の腕を叩く。

「あなたは本当にこれからなの。この間のコンクールで、日本のジュニアの8位に入賞出来ただけ。これがどういう事か、わかってる?」

 9歳の律は口を尖らせた。

 もう限界。

 何を言っても、時間の無駄だ。

「今のままでは、世界には手が届かない?」

 いつもいつも、言われ続けていたこの言葉。

「そうよ。だからあなたは練習をするべきなの。今この瞬間もね。こんな事をいちいち、言わせないで頂戴!」

 世界が何だと言うのだろう?

 大切な時間を犠牲にして得られるような、価値のあるものだと言うのだろうか?

 ああ…………

 今やっとわかった。

 愚かなのは、自分では無い。

 目の前にいる、母の方だ。

 だって世界を目指す事など律にとって、なんの価値も重みも無い。

 子供であっても律は、今の自分を理解できる賢さを持っている。

 いつだって律の母は、自分の思い通りにしたいだけだったのだ。

 祭りに行けない娘の心が死のうが、彼女が不幸のどん底に陥ろうが、母は一向に構わない。

 律の事を思い遣って、心を鬼にしているわけでは無い。

 自分の娘を世界トップクラスのピアニストに育て上げ、自己顕示欲を存分に満足させ、良い思いを味わいたいだけなのだ。

「世界なんて、私は目指してないの。目指したいのはママだけでしょ?!」

 軽蔑の眼差しで母を睨みつけ、律は泣き叫びながら家を飛び出した。

 誰がどう思おうが、構わない。

 神経がひりつくような感覚も、夏の夜の暑さが少しずつ緩和してくれる。

 大人の事情で振り回されるなど、まっぴら御免である。


「うっ…………!」


 悔しい。


 悲しい。


 寂しい。



 岩時神社から続く参道を、律は息を切らせながら走った。


 坂のふもとに、『カフェ・ノスタルジア』が見えてくる。


 律は、何気なくこの店の前に立っていた。

「ここ…………さくらの家」

 さくらの両親は、代々続くこの『ノスタルジア』という名のカフェを経営している。

 ふと見ると、桃色の髪を持つ小さな少年が、窓の外から店内を覗き込んでいる。

 律は、彼に声をかけた。

「ねえ、何してるの?」

「おわっ?!」

 いきなり話しかけられ、少年はびっくりして律を見た。

「何だよお前、いきなり!」

「律だよ。あなた、誰? どうしてさくらの家を覗いてるの?」

 律には彼が、不審人物にしか見えなかった。

「大地だ。…………入れねぇんだよ、俺。この店の中に」

「どうして?」

 見たところ開店しているようだから、誰でも入れるのに。

「知らねぇよ。さくらがいるかと思って、ドアを開けたかったんだけど」

 大地が開けようと叩いても引っ張っても、ドアは音が鳴らないし動かない。

 律は不思議に思い、こう言った。

「じゃ、私の後について来て?」

 試しに、自分が中へ入ってみればいい。

 学校帰りに立ち寄る事もあるので、さくらの両親とは顔なじみだ。

 チリン!

 音が鳴り、ドアが開く。

 カチャカチャと食器が鳴る音。

 香ばしいコーヒーの香り。

 ゆっくりとしたいつもの、ピアノジャズの音楽が、心地よいリズムで店全体に流れている。

「なんだ、簡単に開くじゃない。こんにちはー」

 元気よく律は、挨拶をする。

 店の奥のカウンターの中で、エプロンをつけてグラスを磨く男性が返事をした。

「お。いらっしゃい、りっちゃん」

 さくらの父親である露木英吾が、挨拶を返してくれる。

「こんにちは」

 律は気になり、後ろを振り向いた。

 桃色の髪の大地少年は、一緒に店内へ入っては来なかったようである。

「…………?」

 どうして入らないのだろう。

 本当に、本人が言う通り『入れない』のだろうか?

 窓の外を見ると、大地はブンブンと首を横に振っている。

「おじさん、さくら、いますか?」

 英吾はカウンター越しに、律にに笑いかけた。

「もしかしてさくらを、お祭りに誘いに来てくれたのかい?」

「…………あ、はい。そうです」

 そういう事にしておいた方が、いいのかも知れない。

 律は咄嗟に、英吾に話を合わせた。

「ごめんね、せっかく来てくれたのに。入れ違いになったみたいだね。さっき結月ちゃんと一緒に、神社に向かったばかりなんだ。今から坂を登れば間に合うと思うよ。外にいる男の子にも、そう伝えてくれるかい?」

「わかりました」

 律は急いで店を飛び出し、坂の上を指さしながら大地に向けて声をかけた。

「さくら、もうお祭りに行ったって! 私達も急ごう!」

「…………わかった」

「さくらのお父さん、大地にもそう伝えてくれって」

「マジで?」

 大地は顔を赤くし、目を丸くした。

 自分が窓の外にいる事など、気づかれていないと思っていたのであろう。

 律はだんだん楽しくなってきた。

 自分は祭りに行けるんだ。

「ね、さくら達探して、一緒に遊ぼうよ大地! 私、これを逃したらもう二度と、遊べないかも知れないもの!」

「どうして二度と遊べないんだ?」

「時間をコウソクされてんの! 鬼婆に!!」

「鬼婆? …………お前、俺が怖く無いのか?」

「怖い? どうして? …………髪の色がピンクだから? あんたなんか全っ然、怖くも何ともないよ?」

 だってそれ、染めてるだけでしょ?

 大地と目が合った9歳の律は、急におかしくなって笑い出した。

「…………わははっ! 今のところ私が怖いのは、ママだけだもん!」

 無理やり従わせようとする母。

 こちらの言葉に耳を傾けない母。

 見下すように自分を嘲笑う母。

 思い通りにしてあげないと、気が済まない母。

 母を忘れるように、律は大地の手を取り、走り出した。

「いっそげー!」

 でも、大嫌いにはなれない。

 だって自分の母だから。

 自分にピアノをさせてくれているのは、あの母なのだから。

 自分の手を引くおかしな律に、次第に大地も笑顔になった。

「お、おお!」

 それからの律は、天国にでもいるような心地だった。

 鬼婆も、神社までは追って来ない。

 さくらや結月、凌太や紺野と合流し、大地も交えて思う存分、かくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたり、祭りや花火大会をくまなく見て回って楽しんだ。

 高揚した気持ちが頂点に達した時、祭りの中央に設置された一段高いステージが、律の目に留まった。


 その真ん中には、黒いグランドピアノが置かれている。

「りっちゃん!」

 ピアノ教室の亜美先輩が、設置されたばかりのステージの上から、律に声をかけた。

 先輩は律を、ステージの方へと手招きしている。

「音楽祭のリハーサル、これからなの。良かったら今、このピアノで何か弾いてみない?」

「え? …………いいの?」

「もちろん! 開始まであと一時間くらいあるもの。りっちゃんが弾いてくれたら、ピアノも喜ぶわ」

 亜美先輩は笑う。

 さくらと結月は目を輝かせ、律にねだった。

「りっちゃん、弾いて弾いて!」

「うん。私も聞きたい」

「俺も!」

「僕も」

「…………おれも」

 驚いたことに、凌太や紺野、それに仲良くなったばかりの大地まで、弾いて欲しいと言っている。

「……それじゃ、弾ちゃおうかな」

「やった! りっちゃん、ありがとう!」

 亜美先輩は嬉しそうに笑った。

 律の心の中は、混乱したままである。

 一生に一度あるか無いかの、母との喧嘩があった直後なのだから。

 見ず知らずの桃色の髪を持つ変わった少年と出会い、一瞬のうちに仲良くなり。

 七年に一度しか味わえない、祭りに参加し、友達とおおいに笑って遊び。

 ピアノを弾いてくれと、言われる。

 なんて、変わった時間なのだろう。

「やめてやるんだから、って、さっき言ったばかりなのにね!」

 一度深呼吸をし、律は鍵盤へと向かう。


 私は、私がしたいように、してみせる。


 律は、自分に固く誓った。


 音色は弾み、ときめいて、甘やかで、美しく、律が今まで感じた喜び全てを表現する。



 祭りに来ていた人々はいつしか、彼女が奏でる音に、夢中になっていた。






 
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