策士な御曹司は真摯に愛を乞う
一歩足を踏み出すと、彼の顎をサラッと撫でた。


「っ……」


夏芽さんが、反射的といった様子で、その手を払う。


「俺に、触るな」


そう言って顔を背ける彼に、多香子さんもきゅっと唇を結ぶ。


「なんとでも言え。美雨に拒絶されても、俺は君と結婚したりしない」


夏芽さんは気を取り直した様子で、背筋を伸ばして姿勢を正した。


「だらしなかろうが最低だろうが、俺が愛してるのは彼女だけだ」

「……ふん」


多香子さんはほんのわずかに顔を歪めて鼻を鳴らしただけで、くるっと踵を返す。
先ほどよりも大きくヒールを打ちつけ、颯爽と歩いていく。


今度は夏芽さんもその後を追わなかった。
遠退く背中を睨むように見据え、やがて小さくかぶりを振って、方向転換する。
オフィスに戻るのか、セキュリティゲートに向かう彼は、とても堂々として見える。


だからこそ、今の多香子さんとのやり取りを、意識的に頭から排除しようとしているのが見透かせてしまう。
私は、その場に呆然と立ち尽くしたまま、彼がゲートを越えてエレベーターホールに消えていくまで見送った。


夏芽さんに愛される今の幸せ以外、他のことはどうでもいい――。
そうじゃないと痛感して、激しく騒いで苦しい胸元をぎゅっと握りしめた。
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