策士な御曹司は真摯に愛を乞う
「いえ……すみません。なんでもないんです」


私は目を伏せ、かぶりを振った。
そうやって、一瞬脳裏を過ぎった『映像』を霧散させようとした。


『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』


その言葉を私が夏芽さんにぶつけたことを、多香子さんが知っている。
つまり、その時、私たちは三人一緒にいたということだ。
それは、いつのことだろう?
思考回路がそこまで働いて、頭の片隅を掠めたビジョン。


もしかして。
私がエスカレーターから転落した、あの事故。
あの時の『記憶』なんじゃ……?
そこに行き着いて、私はゾクッと身を震わせた。


「美雨」


繋いだ手から私の震えが伝わったのか、夏芽さんは怪訝を通り越してどこか険しい顔をしている。
それを見て、ハッと我に返った。


「ほ、本当に、大丈夫。大丈夫ですって」


ここでも、意識して明るい声を張る。


「夏芽さん、帰りましょう」


今度は私が先に踏み出し、彼の手を軽く引いて歩を促す。


「……ああ」


私は、彼の後ではなく、隣に並んで歩いた。
そうしていないと、夏芽さんのことが好きという気持ちが、揺らいでしまいそうだった。


私……本当は、彼を好きになってはいけないんじゃ?
恋人になったのも、間違いだったのかもしれない――。


失ってしまった記憶の中で、私の恋心は迷宮を彷徨っているような、変な感覚に陥っていた。
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