【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 そのまま流れで注いでもらった一杯を一口飲み、そう言えばと思い出す。

「ありました。僕にも、人と変わったこと」

「そうなのですか?」

「大層なものではありませんけれど。小さい頃から音楽に触れて、ピアノをやっていた所為でしょうか、いやその前からあった気もするんですが、いわゆる《絶対音感》なるものを持っていまして」

「聴こえた音が何だか分かるという、あの?」

「それです。将来は音楽家だね、なんて親戚からもてはやされたものです。僕にその気はありませんでしたけれど」

 昔から、姉の鼻歌が音痴であることが気にかかっていて、折に触れてその音は違うと直していたところ、ひょっとすると、という話になった。姉がネットで見つけた簡単なテストをしてみれば――という事なのだが。チューナーを使わずとも、授業で使うギターのチューニングも出来た。

 僕からすれば特別なことは何もない。ただ音が分かるというだけのこと。

「へぇ。良いですね、絶対音感。ピアノをやっていたと言うのなら、クラシックはお好きだったのでしょう?」

 カップを両手で持って肘をつき、そこから覗くようにして尋ねて来る。

「まぁ…退屈ではなかったですけれど」

「あらあら、素直じゃありませんこと。嘘の色が視えていますよ?」

「え、あ、いや、勿論好きでしたよ…! ドビュッシーの曲なんか特に――」

「冗談です。ふふ、神前さんはとっても純粋な殿方なんですね」

 またも悪戯に笑う桐島さん。
 この人、もう僕を弄って楽しんでいるだけのような気がする。
 一気に緊張の糸が切れてしまった。疑いもしなかったぞ、今。

 と、溜息交じりに顔を押さえた手に着けていた腕時計が目に入る。
 時刻は既に、ここへ来た時より一時間以上を回っていた。

「うわ、もうこんな時間……すいません、挨拶まわりのつもりが、すっかり長居をしてしまって」

「いえいえ。私の方から招いたので、お気になさらず。何なら夕餉のご馳走でもいかがですか?」

「せっかくのお誘いは嬉しいのですが、これ以上は流石に。それに、まだちょっとやることも残っているので」

「あら、そうですか。それは残念です」

 眉を下げながら口元に手を添えて笑うそんな所作は、やはり大人の女性なのだと思わせてくれる程に、よく似合っているものだ。
 ふと立ち寄った場所で、まさかこんな出会いがあろうとは。

 人生、面白いものだ。

 なんて、大袈裟な考えをしながら部屋を後にしようと立ち上がり、少し歩く僕の背に「あっ」と桐島さんの声がかけられる。
 振り返ってそちらを見るや、スマホを操作して何かを探している様子。
 やがて目的のものを表示させたらしい桐島さんは、とててと歩いて来て、画面をこちらへと向けた。

 そこには、電話番号にアドレス、おまけでメッセージアプリのアカウント情報までもが表示してあった。

「断りませんでしたよね、助手のお話。お願いしてもいい、ということでしょうか?」

 あぁ、そう言えば。
 特にやりたいことがあるわけでもないし、こちらの目的も達成されるというのなら、請けない手はないな。
 僕も倣ってポケットからスマホを取り出し、慣れず覚束ずな操作で彼女の画面をとりあえず写真に収める。

 哀しいかな、文明の利器を扱えない若者である。

「早速とお仕事を手伝っていただきたいのですけれど――折しも、明日は休日ですね」

「嫌な予感が、と断っても?」

「明日は休日ですね!」

「……お手柔らかに頼みます。内容は?」

「そう構えないでくださいよ、まるで私が悪者みたいじゃありませんか。安心してください、初日から記憶堂本来のお仕事は頼みませんとも」

「え、では何を?」

 時間はかかりますが安心を、と一言入れたあとで、

「お掃除、及びお片付けをお願いしたいな、などと、体のいい厄介の押し付けをしようとしてみたり」

 なんと。
 ある意味で言えば記憶堂関連の仕事ではあるけれど。掃除ときたか。
 確かに、これはアルバイトとしてこれから通う僕としても、流石に看過できない惨状ではあるけれども。

 それにしても——美人な女性から繰り出される上目遣いとは、こうも高い威力を秘めているのだな。狙ってやっていないらしいのが、また何とも。

(って、いやいや)

 大きく頭をぶん回して煩悩を追いやると、仕事の話に入る。
 時間は昼前十時を予定。建物の脇にある外階段から上って、二階にあるインターホンを鳴らしてくれと伝えられた。

 記憶堂――少し変わった雰囲気はあるけれど、不思議と胸が躍るのは何故だろう。
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