【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春

第２章 初仕事

　地元を離れた昨日の夜。

　聞いたことのない話に翻弄された頭は冴え切ってしまっていて、なかなか寝付けなかった。
　横になった後、写真の情報を必死になって打ち込み登録した『桐島藍子』の文字を診て、僕は不覚にも気持ちの悪い笑みを浮かべてしまった。
　単純に女性のアドレスが加わったことによる喜びも大きいのだけれど、一番の理由は、親戚や親以外のものは、男子を含めても未だ登録されていないということだった。

　入学式もまだ翌週に控えているとあって、新しい出会いは桐島さんが初めてだったのだ。

　と、翌朝の今になってあまりの恥ずかしさから死にたくなるような痴態を思い出して悶絶して、ようやくと一息ついた頃には、約束の時間が迫っていた。
　仕事の内容は掃除と片付けだということで、今朝、桐島さんから『汚れても差し支えない服装でお願いいたします』と、イメージ通り丁寧な文面でも業務連絡があった。

　あれもダメ、これも汚せないと色々手にとっては、年頃の女の子のように投げ捨てて投げ捨てて――数回繰り返したところで、ようやくジャージに巡り合えた。
　急いで着替え、簡単な清掃道具を持って家を後にした。
　昨日歩いた夕刻と違って、昼前の春先は仄かに温かく、また肌寒くもある。
　見覚えのある路地を曲がって少し歩くと、よく見れば二階建てだった記憶堂が見えてきた。

「確か、脇に階段が。っと、これか」

　見つけたそれは、外階段と呼ぶには造りの良い、且つ屋根付きの階段。金属製のそれに滑ってしまってはいけないようにと、縁にはゴムが設けられている。
　階段を上りきると、短い廊下。その奧に、件のインターホンと扉が構えていた。

「これを鳴らせばいいんだっけか」

　ピンポーン。

「おぉっ？」

　鳴らしたそれからは、耳馴染みのない音が響いて、僕は思わず半歩退いてしまった。
　実家、及びその周りにある知り合いの家は、全てブザーの音だったものだから、なんだか全て新鮮な心地がしてならない。

　驚きに瞬間だけ跳ね上がった鼓動が間もなく落ち着くと同時、扉が開かれた。あわや頭が吹き飛ばされるといった寸前で静止したそこから、ジャージと随分ラフな格好をした桐島さんが顔を覗かせた。

「神前さんでしたか。いらっしゃい、どうしたんですか、大きな声を出して？」

　昨日あれだけキリっとしていた人が、ジャージできょとんとしていると思うと、ついおかしくて笑ってしまいそうになる。