【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「そいやったら、早速始めるばってん、下に移動して――」

「それは佐賀です!」

 瞬間で制止される冗談。流石の情報量だ。
好奇心の申し子と化した彼女の前では、ちょっとしたお茶目も封殺されてしまうらしい。

「失礼。なら、予定しとった時間も過ぎとるけえ、始めていきましょう」

「そうそうそれです。うん、良いものですね、方言!」

 知識としては持っているだろうに、わざわざ口からききたいものなのだろうか。
 僕としても、こっちの方が素に戻れて楽だから、別に構いはしないのだけれど。寧ろ歓迎こそする。
 すると、ちょっと待ってくださいと部屋に戻って、すぐにモップと雑巾を手に戻って来た。

 そうして、それでは行きましょうと音頭を取ると、先行して階段を降りて行ってしまった。
 早速と本を全て一旦どかして着手した棚は、見た目以上に埃が溜まっていた。
 下手をすれば、その角やあの角辺りに蜘蛛の巣や死骸が。とは、あまり考えないようにして作業を進める。

 先んじて渡しておいた、二つずつ作って来ておいた便利グッズは、早くも役立っているようで。本を抜いた棚の奥、木組みの角に、細い割り箸ストッキング巻きは効果覿面。ひと拭きする度に「おー」と聞こえてくる。
 そんな桐島さんの無邪気な反応は、今や日常的に使っていたそれを初めて手にした幼少の頃を思い出して、つい笑ってしまった。

 時間にすれば約一時間半。

 二人がかりで存外早く掃除を終えると、今度は整理整頓。本を戻していく作業だ。
 なるべく似たような種類で固めながら掃除をしていたつもりだけれど、改めて見ると、何が何だか初見の僕には分からない。

 が、そこで頼りになるのはやはり家主。
 僕が手に取った一冊一冊を、チラリと見やると、

「それは最奥の壁伝いにある黒色の棚、上段の左端へ。隣の二冊も、一緒に並べちゃってください。あぁ、それは――」

 都度都度で、流石の記憶力を武器に、桐島さんが適格な指示をくれる。
 右も左も分からない僕はそれだけを頼りに、一つ一つ、何百何千あろう本をかたづけていく。

 滋賀の隠れた名所。
 北海道はここへ行け。
 等々。とにかくも、地理的な書物ばかりだった。

(そう言えば)

 記憶力が仕事に活かされていることは分かったけれども、具体的には何をどこまでどうするのだろうか。
 一見してみないことには、分からないな。

「神前さん?」

 ふと、桐島さんの声が耳を打った。
 すぐ近くから聞こえたそれは、一体どれだけの時間固まってしまっていたのか、気が付けば正面にいた小顔からのものだった。

 ふわりと香るのはシャンプーのそれだろうか。女性はどうして、皆こうもいい香りがするのだろう。

「すいません、ちょっと考え事を。次はこれですよね」

「青森県の。それは――」

 今考えても仕方のないことか。助手という名のアルバイトとして雇われた以上、それは遠からず舞い込んでくるものだ。
 今はまず、この大量に積み重なった仕事道具を処理するのが優先だ。
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