【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 そうして、昨日散策した方向とは逆に十分ほどの距離を歩いて見えて来たのは、交差点の角にひっそりと佇む、落ち着いた雰囲気の喫茶店。

 看板には《星屋》と書いてある。

「ここが?」

「ええ。飲み物もお料理もオススメです。原稿に行き詰った時なんか、よく来ますね」

「へぇ…」

 相槌を打った僕より一歩踏み出して、桐島さんが扉を開けた。
 カランコロンと響く鈴の音は、記憶堂よりもやや高めだ。

「いらっしゃい」

 カウンターからこちらに目を向けたのは、ぱっと見ただ一人しかいない店員さん。
 整った白い髪に同色の立派な髭、低い声とその落ち着いた服装とで、ただただ渋い第一印象を抱かせる。
 店内には数名、ちらちらと客が入っているようだった。

 と、僕の方を見たおじさまだったけれど、すぐに隣の桐島さんへ視線を移したかと思うと、

「彼氏さんかい?」

 そんな第一声を浴びせた。
 瞬間、紅潮する桐島さんの頬。次第に顔全体へと広がると、憤慨して両手をぶん回した。

「もう、彼はただのアルバイトさんですよ…! この間は担当編集さんまでそうやって弄ってましたし…! もう、もうですよ!」

「悪い悪い。年を取ると、藍子ちゃんみたく若い女性の慌てる姿が楽しくなってくるんだよ。あ、いつもの角の席なら空いてるよ」

「まったくもうですよ! ありがとうございますですよ!」

 怒ってるのか感謝してるのか。忙しい人だ。
 しかし、あの桐島さんを藍子ちゃん呼びするとは。歳の差こそあるとは言っても、そうそう出来るようなものではなさそうだ。見た目には若いけれども怖いくらいの落ち着きようである桐島さんだ。

 憤慨しながらも律儀に頭を下げると、慣れない環境と空気に固まっていた僕の袖を小さくくいと引いて、おじさまの言った角の席と思しき方へと歩いた。
 外装が外装なら、内装も内装。多くない適度な照明に高い天井までの空間を埋める梁が雰囲気を際立出せている。

「お冷をどうぞ。言ってくれれば、いくらでも追加しに来るからね」

「ありがとうございます」

 桐島さんに続き、小さく礼を言って一口。と、おじさまが僕に視線を向けて来た。

「その気はないの?」

 思わず吹き出してしまった。

「ち、違いますからね…! 僕はただのアルバイトで、それにまだ大学生ですし…!」

「はっはっは! 何だ、そうなのかい。これだけの別嬪さんなのに、なかなか浮いた話も聞かないから、ちょっと心配だったんだけど」

「もう、やめてくださいってば…! サンドイッチとブレンド! 神前さんは!」

「え――あ、えっと、じゃあペペロンチーノとブレンドを…!」

「はいはい、了解したよ。少々お待ちを」

 勢い任せの注文を、聞くだけ聞いてメモを取ることも確認をすることもなく、おじさまはそのまま店の奥へ。
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