【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
第3章 少女と子猫
 奢ってもらって良かったのだろうか。

 決してデート等ではないにせよ、食事と言えば割り勘か男持ち――なんて考えは、棄てるべきなのだろうか。
 収入もありますし大人ですから、と冗談めかして言いながらレジを通って、桐島さんは気にしないでくれと言っていたが、うーん。

 しかし。後学の為、か。

 多くの書物並ぶあの古書店然とした記憶堂なる店に、まさかこんなに早く依頼がやって来るとは、意外だった。
 疑っていた訳ではないけれども、ある種少しばかり期待を裏切られた感覚だ。

『明日は、午後の四時前に記憶堂へ顔を出してください。四時半を予定しておりますが、早く来られることもあるかも知れないので』

 と、言われたはいいけれど。断る立場にないとは言え、どうにも急な話である。
 母親からのメールに返信して夕飯を済ませ、風呂に入ってゴロゴロとしている内にねむってしまって――

「昼過ぎ、か……」

 どうやら寝すぎてしまったらしい。
 寝ぼけ眼で確認した時計は、十二時半を過ぎている。
 深夜まで起きていた記憶はあるけれど、実に十時間近くも眠っていたことになる。

 これではかえって不健康だ。

 普段はあまり運動をしないだけに、昨日あれだけ動かした身体は悲鳴を上げていた。立ち上がるのもやっとだとは、我ながら情けない。それでも何とか鞭を打って洗面所に向かって、冷水を思い切り顔にかけて覚醒を促した。

 存外と冷えていたそれは意識を完全に切り替え、寝ぼけを取り去ってくれる。
 昼過ぎとは言え、起き抜けに昼食を摂る気にもなれず、結論、星屋を過ぎて更に少し歩いたところにあると桐島さんが言っていた公園を思い出し、散歩がてら足を伸ばすことにした。

「うぅ…少し冷えるな」

 着替え終わって開けた玄関先から、冷たい風が頬を撫でて、思わず身震いした。
 一旦閉めて薄い上着を羽織る。
 再び開いて外に出ると、薄くても一枚あるかないかで大きく異なる温かさに安心した。

 酒屋、郵便局、昨日の星屋とを通り過ぎて更に歩くこと五分程。
 件の公園に辿り着いた。

 ちらちらと所々に遊具、砂場と、子どもでも十分に楽しめる場所でありながら、まだ枯れ落ちてはいない桜の木に囲まれている、落ち着いた雰囲気がある。
 奥の方にベンチを見つけると、少し座って落ち着こうかとそちらに歩いた。
 腰を降ろして空を仰ぎ、雲一つない晴天に漂う空気を胸いっぱいに吸い込む。都会は空気が汚れているとよく言われるけれど、存外そんなこともない。桜に囲まれていることも手伝ってか、ここの空気はとても澄んでいて美味しい。

「ふぅー……ん?」

 吸い込んだ空気を吐き出すと同時、立ち並ぶ木々の中でも一等大きな桜の手前で、それを見上げる少女の姿が目に入った。
 歳の頃は僕とそれほど変わらないか同じくらい。身長は、桐島さんよりも一回り小さい程度。黒のショートパンツに同色のタイツ、ジャケットを羽織っている。

 肩下まである髪は、下の方で二つに結わって前に流している。
 薄っすらと細められた視線の先には、高い所の枝の上で丸まって動かない、子猫がいた。

 漫画やドラマで、一度は見たことが有る光景だった。
 別に無視をしても良かったのだけれども、何を思ったのか、僕は重かった筈の腰を上げて、そちらの方へと歩いた。
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