【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 今度は僕の方がきょとんとしてしまった。
 すぐに何とか笑いを堪えると、努めて冷静に、女性は僕の目を見直した。

「すいません。神前さん、ですね。お引っ越し後ということでしたら、さぞやお疲れでしょう?」

「言われてみれば……って、それで汗かいてたのに、僕――すいません、今日のところは出直します…!」

 咄嗟に走り出そうと踵を返す。しかし、ふと「お気になさらず」と声を掛けられたことで、身体はそのまま前へとは進まなかった。
 どころか、背を向けたままの僕の正面へと回り込むと、

「せっかくですから」

「は、はい…?」

「一杯、いかがでしょうか? お茶などしかありませんけれど」

 そう言って微笑みを残すと、女性は身を翻した。

「え、い、いえ、それは迷惑では?」

「あら、家主の私が、それも勝手に自分からお誘いしているのですよ? それをお断りに? 挨拶なのでしょう?」

「え、あぁいや、それもそうなんですけど、ごもっともなんですけれど――では、えっと、遠慮なく」

「はい!」

 見た目の通りに大人っぽい人かと思えば、随分と表情豊かな女性だ。
 などと思っている僕に向かって小さく礼をすると、女性はそのまま出て来た部屋の中へと再び入って行く。

 今度は扉も開け放したままだ。入れ、ということなのだろう。
 恐る恐る入ると、端の方には小さなコンロがあった。隣には冷蔵庫もあるというここは、どうやら給湯室のような空間らしいことが分かる。

 棚から小瓶を取り出し僕に背を向ける彼女の手からは、何やらカサカサと葉が擦れるような音が聞こえる。おそらくは茶葉なのだろうけれど、すぐにそれが分からず思考している内に、薄っすらと、どこか落ち着く良い香りが漂って来た。
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