【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「こ、神前…? それに、真っつったか?」

 急に力が込められた手を寄せ、興奮気味に巻き舌で聞いてきた。
 苗字は確かに珍しい方だとは思うけれど、名前込みで、それに驚かれるような有名人でない――高宮?
 僕が気付いたすぐ後で、男性は深く頭を下げて言った。

「妹が世話になった。公園で猫助けて、話し相手になってもらったって」

 高宮遥。
 やはり、高宮葵の兄だったか。
 高宮さんなんてごまんといるし、それがこの大学にいても決しておかしくはない話だけれど。

「マイペースが過ぎるからな…粗相とか、なかったか…?」

「え? い、いえ、とんでもない…! それに、僕は途中で寝ちゃってますし…話し相手になれていたかどうかもぶっちゃけ怪しい…」

 事実、その妹も「ずっと猫を撫でていられた」と言っていた。
 どちらかといえば、猫の方だけでも十分だった気さえしてならないのだけれど。
 兄遥は、それでも僕を恩人にしたがるようで、「そんだけでも十分だ、あんなんだから友達も少ないし」と首をぶんぶん横に振って言った。

「それにバイト先の、何つったか…記憶堂? そこで、俺らが長年首を捻ってきた写真の場所も分かったって話じゃないか」

 それも僕ではなく桐島さん――あの人と僕の働きを割合で言えば完全に十ぜロだ。
 透明だからと採用されたけれど、何で彼女の役に立てるか、皆目見当もつかない。

「まぁともあれ、色々ありがとな。マジで助かった!」

「いえそんな……と、昼休みが――」

 気付き、言いかけたところで。
 無情にもスピーカーから鳴り響く、予鈴の音。
 午後からの説明開始を知らせると同時に、食料摂取という行動を奪う。

「うわ、鳴りやがった……あーすまん、この謝罪は今度絶対に…!」

 高宮兄は、音がなる程強く両手を合わせて謝った。
 何となく、やることもないから食事でもと思い、ふらっと出てきただけだったので、そう謝られることでもなかった。

「気にしないで——って、それよりも待たせてる先輩方…!」

「やっべそっちも忘れてた…!」

 慌てて身を翻して走り去って行く。
 と、パン類の並ぶ陳列棚に差し掛かったところで振り返り、

「んじゃ今度、諸々の礼ってことで飯奢るわ!」

 大きく右手を高らかに掲げて振って、高宮兄は笑う。
 妹思いと言うよりは、妹馬鹿とも取れそうだ。
 祖父の思い出を辿る妹が、可愛くて仕方がないといった様子。

「早く先輩方にパンをー」

「おう、んじゃまた!」

 そう言い残して、少し遅れた他人の昼食買い。
 使いっ走りの後輩が、時間超過で戻った時に何を言われるか。あまり考えないようにしよう。
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