【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「――と、いうことがありまして」

 放課後。
 諸々のガイダンスに続くサークル勧誘を何とか避けて、やって来たのはバイト先。
 いつもの奥部屋で、桐島さんは小説の頁を捲っている。
 西日が射しこむ夕刻。ゲリラ性のある仕事上、家にいても暇だからと足を運ぶとアールグレイでもてなされ、それを少しずつ口に含みながらそんな話をした。

 まるで、親にでも話すかのように。
 ぱらぱらと一ページ、また一ページと捲りながらも、ちゃんと僕の話は一言一句逃さず捉えている。

「それは数奇な巡り会いですね」

 と、詩的な言葉を持ってきて小説をパタン。
 穏やかな笑みを浮かべて向き直った。

「幼少の頃、バイオリンのジュニア大会でトップに立った人が居たそうですよ?」

「急にどうしたのですか?」

「とある高宮少年のお話です」

「たかみや――って、日本一?」

 敢えてそれが高宮兄のことではないか、とは尋ねなかった。
 この人が悪戯な笑みを浮かべる時、また完全的な記憶力を前に、それが間違いや勘違いでないことは火を見るより明らかだからだ。

 しかし、バイオリンとは。音楽的なイメージは全くと言っていいほど感じなかったのだけれど。

 加えて天文部だという話であるし――うーん。

「最後の演奏は高校一年だったでしょうか。腱鞘炎の悪化が原因なんだそうですよ」

 不意に、桐島さんは僕の心を読んで言った。
 驚き勢いよく顔を上げた僕に、もうひと笑い。
 考えていることなどお見通し、と言った具合だ。

「腱鞘炎って、ちゃんと治療すれば治るものじゃないんですか?」

 冷やす、場合により温める、湿布の使用、あるいは腕を全く使わないといった対処で、快方に向かうと聞いたことがある。

「早期なら、です。放っておくか無茶をするなどで悪化すれば、熱感や腫れを伴い初め、更に放っておくと手術適用になるのですが、これがまた厄介で」

「厄介?」

「ええ」

 短く頷いた後に放たれたのは、複数の後遺症が伴うということ。
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