【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 二日目の課程をとりあえずと終えた僕は、記憶堂に顔を出していた。

 メールでやり取りしても良かったのだが、見ないとも限らないからと、直接桐島さんに今日の仕事の有無を確認する為だ。

「特には……はい、ありません」

 確認を取るや、返ってきたのはお暇通知。
 今日は珍しく昼間からパソコンを打っている桐島さんが、振り返り様に考えながら言った。
 勝手知ったる奥部屋をノック無しにいきなり開けたことに驚かれ、叱られ、いつものようにアールグレイでもてなされる。

 落ち着く空間を求めてやって来た訳ではないのだけれど、出された飲み物に罪はない。
 いただきますと一言、いつもより少し早めに喉に送ったそれは存外熱く、ふとして噎せてしまった。

「気をつけて飲んでください、火傷でもしたら大変ですよ?」

 そんなことを言いながら、ハンカチを手渡される。
 借り受けたそれで口元を拭うのは気が引けるけれど、せっかくの厚意を無駄にするのも無粋が過ぎる。

 しかしやっぱり、折り目のしっかり付いたそれを見ては、僕の汚い口元に使うのは勿体無い。
 感謝しつつも失礼して、僕は机上のティッシュを二枚ほど取って処理した。

「座りもせずに飲み始めたかと思えば、噎せてしまって。慌てている様子ですが、どうかしたのですか?」

 飲み干した紅茶を足しながら、桐島さんがそんなことを尋ねて来た。
 そこでようやくと思い出した、高宮妹の存在。
 待ち合わせまで時間はまだあるけれど、早めに行っておくに越したことはない。
 遅れて怒られることの方が、よほどバツが悪い。

「高宮妹――っと、葵さんに呼び出されまして。要件は分からないんですけれど」

「あら、そうでしたか。では行ってくださっても構いませんよ。すいません、引き止めるような真似を」

「い、いえそんな…! ご馳走様です」

「お粗末さまです。お気をつけて」

 わざわざ体全体で振り返り、微笑を浮かべる。
 何度見ても慣れない、眩しい笑顔だ。
 柄にもなく「行ってきます」なんて言って記憶堂を後にした。

 途中、自宅に立ち寄り荷物を置いて、財布とスマホだけを持ち出して星屋を目指す。
 店が見えて来た辺りで腕時計を確認すると、待ち合わせまでは二十分程の余裕があった。
 これなら怒られることは無いだろうと思いつつ、店内へ入った。

 だが――

「遅い」

 出会い頭、向けられたジト目。
 余裕があるにも程がある時間に来たというのに、その言い草は何なのだろうか。
 そう思ったのも束の間、葵は四十分も遅刻していると言い張った。

「いや待って、勝手に呼び出しておいてそれ? しかも待ち合わせは確か六時じゃなかった?」

「六時? 私は五時って……あ」

 むすっとしながら慣れた手つきでスマホを操作し、手を止めるやしまりの悪そうな顔をした。

 そのままスマホをスカートのポケットにしまい直し、水を一口。

「その「あ」は何?」

「……な、何でも」

 葵はわざとらしく目を逸らしてもう一口。
 大方、五と六が隣で近くて押し間違えたのだろうと、容易に予想はつく。

 ボタンと違って液晶は、触った時に確かな反発がないから。親への返信で「?」を打ち間違えて「る」と送って逆に聞き返されたことがある自分には、葵の間違いに強くは言えない。
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