【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 逆ギレして口を聞いてくれなくなるよりマシだと思えば、いくつか気も楽だ。

 そこでようやく、葵がボーイッシュな私服とは違い、綺麗な黒の制服に身を包んでいることに気がつく。
 とは言え羽織られた茶色のカーディガンは、やはり些かの大人っぽさを醸し出してはいた。

「なに?」

 席にも着かずじろじろ見ていた僕に、先の理不尽な怒りをやや戻した葵が見上げて言った。

 いやらしい目で見ていたつもりはない。
 しかし、それを受け取るのが年頃の女の子とあっては。

「ごめん、私服と全然違うなって」

「そりゃそうだよ。誰が着たってこうなるんだから」

 そういうことではないのだけれど。まぁいいか。
 遅ればせながら椅子を引いて腰掛け、マスターを呼びつけブランドだけ注文。
 葵にも何かいるかと尋ねたところ、返ってきたのは「オムライス」の一言。
 かしこまりました、とマスターが引っ込んで行くのを見届けて、

「飲み物じゃなくて?」

「高い?」

「いや一人分くらいならまぁ別にいいんだけど。夕飯食べられなくなるんじゃないかと思って」

「あぁ。それなら大丈夫。今日は兄貴帰ってこないから」

 兄貴…遥さんか。
 帰ってこないとは一体、どういうことなのだろう。

 それに、だからと言って夕飯が食べられなくなるわけでは。

「聞かれる前に言っとくけど、うち両親いないの」

「へ…?」

 聞き返す僕に、葵は底に少しだけ残っていた水を飲み干す。
 そして両手をカーディガンのポケットに突っ込んで、背もたれに全体重を預けて脱力し、やや俯きがちにため息を吐いた。

「昔に事故で。夜の山道を走らせてたみたい」

「事故?」

「この間私が記憶堂に行った時、思わなかった? そんなに直近ですぐに行く必要があるのかって」

「それは、まぁ…うん」

 バイト代全て注ぎ込むにしても、来週などとは随分早計だなと思った。

「私、すごくおじいちゃんっ子だったんだけどさ。それは、両親がいなくなったあと、ずっと面倒見てくれたのがおじいちゃんだったからなんだ。迷惑かけたくないから物は一切強請(ねだ)らなかったけど、折に触れて『欲しいもんは無いか?』って。すごく優しかった」

 途切れ途切れ。というよりかは一言一言ゆっくり話す印象だった葵がスムーズに話すのは、それが余程大切な思い出だからだろうか。
 普段は緊張の糸を張っていないからああなだけで、一度スイッチが入れば、感情が止まらなくなる。

 僕は彼女を誤解していたようだ。

「今は親戚からの仕送りとかで何とか。兄貴と二人暮らし。でもそれじゃあ私が満足して暮らせないからって、兄貴は塾の講師やってる。今日帰らないのはそのため」

「そうなんだ。へぇ、優しいお兄さんじゃないか。それに…」

「別に暗くならなくてもいいよ。嫌な思い出話じゃないから」

「分かってるけど……何て言うか、苦労も知らないであれこれ勝手な想像してたなって」

「むぅ。分からないけど、何か嫌だから内容は聞かないでおくよ。けど、それが別に、私を不快にさせてるわけじゃないし」

 それはそうなのだけれど。
 高宮葵。随分と強い、逞しい女の子だ。

 と、変に空いた間にタイミングよくやってきたのはマスター。
 お待たせしました、と注文した品を並べる。

「今日は藍子ちゃんと一緒じゃないんだね?」

「四六時中一緒にいるとでも? 住み込みでもない通いのバイトですから」

「はっはっは、まぁそれもそうか。ごゆっくり」

 軽く上体を倒して礼。
 もはや定位置とも言えるカウンターへと戻って行った。
 他の客こそいないが、それだけに今の会話も少しは聞こえていたことだろう。
 ああやって冗談を言うのも、気遣いの意味もあったのではないか、と思うのは僕の自惚れだろうか。

「冷めないうちに食べな。デザートも品揃えはいい」

「……点数稼ぎ?」

「親切心だよ」

 せめて家から離れたここでは、好きな物を。なんて。そんなことで役に立てるとは思わないけれど、このくらいのことしかできないし。

「ありがと」

 真顔のまま変わらないのも、高宮さんらしい。
 彼女にも少し気を遣わせてしまったのだろうが、

「じゃあ遠慮なくチーズケーキ」

 食い気には負けたようだ。
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