【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 しばらくは無言が続いたが、いくつか家を越した辺りで、ふと葵が「あの」と正面向いて歩きながら口を開いた。

「どうしたの?」

「えっと、改めてお礼。美味しかった」

「ありがとう、と言わない辺りが素直さだよね。どういたしましてだけど」

 居眠りしてしまった時同様、欲望には素直なようだ。

「兄貴が私のためにバイトしてるのはちゃんとわかってるし、感謝もしてるんだけど、やっぱり食事が一人ってすごく寂しいから」

 両親が亡くなって祖父も亡くなって、仕送りというからには親戚も一緒に住んでいるのではなくて。遥さんと二人だけで住んでいる以上、片方がいなくなれば片方は一人で残っているということだ。

 話を聞くに、夜いるのは大半というか基本は葵の方。
 まだ親と仲よくてもおかしくない年頃の女の子にそれが出来ないというのは、一体どれほどの寂しさなのか。

「ナンパとか口説いてるわけじゃないことを前提に、たまになら食事くらい奢るよ」

「それ…兄貴いない時――」

「毎日はダメ、たまにだ。僕にも生活はあるからね」

 と言っておきながら、記憶堂のバイト代を知らないことに気がついて黙る。
 どうしたの、と首を傾げる葵になんでもないと言って、

「とにかく、たまにだ。呼ぶな、なんて意地の悪いことは言わないけれど、ある程度こちらのことも考えてくれるならいくらでもいい」

「分かった」

 その輝く瞳は分かってない人のそれだ。
 内心で突っ込み更に少し歩くと、人や自転車、車の行き交う大通りに出た。
 立ち止まり、挨拶をせんと口を開けた時だ。

「おー葵!」

 斜め前方からかけられる声の方には、大きく手を振って駆けてくる遥さんの姿。
 僕らの傍まで来て足を止めると、

「ナンパか?」

「言うと思いました」

 開口一番何を言うんだか。
 一方的に呼び出されて、気がつけば一色プラスデザートを奢っていて、夜道は危ないからとわざわざ送って、などと恩着せがましい言い方は嫌いだから、

「相談に乗ってたんです、妹さんの。遅い時間だなと思っていたら、今日は夕食一人だって言うものですから。ご一緒していた次第です」

 嘘は言っていない。
 半ば庇う形の少し違う経緯を話せば、遥さんは先日と同じようにして僕の手を取り、ぶんぶんと振り始める。

「そうか、また助けられたか! 言っても言い切れない礼だなこれは」

「別に、流れですから」

「てっきり、顔と自由さに釣られてよからぬことを――」

「実の妹を持って来て何を言いますか…!」

「はは、冗談だ」

 それにしては本当っぽいトーンをやめていただきたいものだ。
 顔って、妹を前にそこまで言えるとは、拍車がかかってるなこの人。
 どこまでが本当でどこまでが冗談か分からない。

「ともあれ、助かった。礼を言う」

「全然。これだけ緩み切った顔を隠そうともしないくらい満足そうにしてくれてるので、何よりです」

「そっか。悪かったな、また続けて迷惑かけて」

「楽しいからいいですよ」

「お前やっぱり――」

「ほぼほぼ初対面の相手にそれはあり得ません」

 一番あり得ないのは、その相手と食事をしたことそれ自体だけれど。
 それから手短に別れの挨拶を済ませると、二人は先の道、僕は来た道を戻っていく。
 去り際、「バカ兄貴」と小さく漏らした葵の表情は、何とも言い難い複雑さを孕んでいた。
< 36 / 98 >

この作品をシェア

pagetop