【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「なんとまぁ、数奇な」

 桐島さんの言葉を借りるとこのようなところか。
 高宮兄妹と別れて自宅に帰った僕は、風呂を沸かしながら独り言。
 掃除はこまめにやっとけ、という母からの言いつけを守り、光沢が出る程磨いた後だ。

 程なくして沸けた湯船に全身を洗ってから肩まで浸かり、ここ数日の衝撃的な出会いの数々を思い出す。
 どの人もまだ一度二度程度の顔合わせではあるのだけれど、感謝されたり同情したり、尊敬したり驚かされたりと、とにかくバラエティに富んだ会話だった。
 特に珍しい話でもないし、面白い何かがあったわけでもない――というのはあくまで一般論。

 こと広く世間を知らない僕に於いては、その限りではなかった。初日、アールグレイの下りすら、一切知り得なかった僕だ。

 数奇。

 遠い未来でまだ付き合っていたとしても飽きるとは思えないようなこの数日間の出会いは、文字通り数奇なものなのだろう。

「ふぅ…」

 何個か買ってきていた入浴剤も、これで最後か。
 また、新しいものを買い溜めておかなければ。
 この家には今、自分一人。全て、自分でやらなければいけない。
 ふと思い出すのは「百数えてから出なさい」と何度も言われたこと。年甲斐もなく口に出して数を数える。童心に返った気もするけれど、今はただ、誰もいない虚しさが紛れるなら良いか、とさ思えた。

 家を離れて初めて、家で言われたことを考える。これがホームシックというやつなのだろうか。
 百、と丁度そこまで到達したところで、新しい下着やらシャツやらと一緒に籠の中に入れておいたスマホがメッセージ受信のメロディを奏でた。

 マナーモードにしておいて気付かず夜を明けてしまってはと思い、解除しておいたのが吉と出たようだ。
 一体誰が、と呟きながら脱衣所に上がって、両手の水分だけ素早く取り除くと画面を開く。

《新着メッセージ:ハル》
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