【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「すいません、今アールグレイしかなくて」
不意に、振り返りざまにそう言って来た。
「と、言われましても……申し訳ないのですが、紅茶にはあまり詳しくなく」
「あら、そうでしたか。若干七千円の高級茶はお口に合わないでしょうか…?」
「七……? え、そ、そんな高価なもの、尚更いただけませんよ…!」
流石に、そこまで高価な物なら、僕なんかの腹に入れてやるのは勿体ない。
大事な来客や友人辺りが来た時など、ちゃんとした場で用意するべきものだ。
「まぁ、冗談なんですけどね」
「んぇ…?」
素っ頓狂な声が漏れた。
冗談、とは。どれが。いや、どこまでが。
彼女は僕を見て笑いを堪えている。
その意味すら分からずぽかんと口を開けて固まる僕に、彼女は棚からもう一度件の瓶を取り出して寄越した。
綺麗な茶葉の絵、原材料や期限等々の記入、そして。
「六千……じゃない、六百…? あの、これ、一桁消えてません?」
「いいえ」
「では――え、六百円…? ほんとに?」
「ええ。お客様にお出しするには少々失礼ではあるのですが、すみません、安物なのです。これくらいもものが、私は好みでして」
高級茶だと思って疑わなかったものが、その実そこいらで買えるような代物だったのか。
いや、きっと地元にも流石に置いてはあったのだろうけれど。僕は世間を知らな過ぎる節があるからなあ。
「失礼を承知で尋ねますが。神前さん、出身は田舎の方で?」
「え? あぁ、はい、田舎も田舎の方で。鳥取から越してきました」
「まあ、良いですね、鳥取県。一度行ってみたいです。っとと、すみません、どうぞこちらの椅子にかけてください」
そういえば。
「ありがとうございます、失礼します」
今更ながら、頭の謝罪の文言を持ってくる辺り、純日本人だな、などと我ながらしみじみ。
彼女が引いてくれた椅子に腰かけると、テーブルの上に、程よく湯気の立ったコップが置かれた。
安物だと分かったそれを遠慮なく受け取り、一口。春先のまだ冷える身体には、一杯のお茶の温かさは染み渡るものがある。
向かいの椅子にかけた彼女の手にあるコップからは、珈琲の芳醇な香り。そんな、大人な空間と温かさに触れていると、ふと彼女が「はふぅ」と息を吐いた。
「スタバさんの第一号店も、建ってからもう何年も経つんですよね。ここらでは少し車で移動すれば出会えますが、鳥取県ともなれば、土地が土地なだけに、あちこちに置いても集客の見込みは少なそうですし。勿論、それを馬鹿にしている訳ではない、と明言はしておきますけどね」
「疑ってませんよ、別に」
地元民である僕ですら、思ったことだ。
世間からは祝われもしたが、同時に、こんなところに建てては赤字になってしまうのではないか、とも危惧した。
僕だけじゃあない。それは、当時よくつるんでいた友人も言っていたことだ。
都会に多く出店した方が、もっと儲けはあるのではないか――と、まぁそれも、ただの一般人である僕らの意見なのだけれど。
実際問題、経営というやつは、そう単純な話でもないだろうから。
「さて」
随分と間を空けてようやく二口目を飲んだ辺りで、彼女が手を合わせて言って来た。
何か、と視線で尋ねる。
「ここに来た理由を、そろそろお伺いしても?」
「――と、申しますと?」
「ご近所周りへの挨拶だという話でしたが、本日、ここのすぐ近場では引っ越しの賑わいはありませんでした。そう遠くでもないのでしょうが、噂の一つも立っていないということは、地区内ではないということの道理です。それに、仮に隣だったとして、一般家屋ならまだしも、こんな怪しい、それも家ではなくお店に、わざわざ足を運んでの挨拶など、しようと思い立つものでしょうか?」
「まぁ、それもそうなんですけど…」
別段、隠す理由もない。
僕は頭の中で一瞬間整理をすると、しかし確たる理由など全くなかったなと結論付けて口を開いた。
「正直に話しますと、何となくでして。どう言ったものやら悩みますが、助手を募集している旨の小さな看板を見たってところまでは覚えているんですけれど……気が付けば、中に」
「なるほど。お仕事志望でしたか」
「大層なものでは。大学入学を機に単身越して来たものですから、ただ漠然と、そう言えばバイトなんかも探さないとなー、なんて思っていた程度。何か、これがやりたいって訳でもなくて」
「あらあら、そうなんですか」
そう、一言置くと。
「では、ちょっとしたお悩み事を聞いていただきましょうか」
明るく、しかし瞳の奥に何やらよからぬものが見え隠れする笑顔で、そんなことを言った。
不意に、振り返りざまにそう言って来た。
「と、言われましても……申し訳ないのですが、紅茶にはあまり詳しくなく」
「あら、そうでしたか。若干七千円の高級茶はお口に合わないでしょうか…?」
「七……? え、そ、そんな高価なもの、尚更いただけませんよ…!」
流石に、そこまで高価な物なら、僕なんかの腹に入れてやるのは勿体ない。
大事な来客や友人辺りが来た時など、ちゃんとした場で用意するべきものだ。
「まぁ、冗談なんですけどね」
「んぇ…?」
素っ頓狂な声が漏れた。
冗談、とは。どれが。いや、どこまでが。
彼女は僕を見て笑いを堪えている。
その意味すら分からずぽかんと口を開けて固まる僕に、彼女は棚からもう一度件の瓶を取り出して寄越した。
綺麗な茶葉の絵、原材料や期限等々の記入、そして。
「六千……じゃない、六百…? あの、これ、一桁消えてません?」
「いいえ」
「では――え、六百円…? ほんとに?」
「ええ。お客様にお出しするには少々失礼ではあるのですが、すみません、安物なのです。これくらいもものが、私は好みでして」
高級茶だと思って疑わなかったものが、その実そこいらで買えるような代物だったのか。
いや、きっと地元にも流石に置いてはあったのだろうけれど。僕は世間を知らな過ぎる節があるからなあ。
「失礼を承知で尋ねますが。神前さん、出身は田舎の方で?」
「え? あぁ、はい、田舎も田舎の方で。鳥取から越してきました」
「まあ、良いですね、鳥取県。一度行ってみたいです。っとと、すみません、どうぞこちらの椅子にかけてください」
そういえば。
「ありがとうございます、失礼します」
今更ながら、頭の謝罪の文言を持ってくる辺り、純日本人だな、などと我ながらしみじみ。
彼女が引いてくれた椅子に腰かけると、テーブルの上に、程よく湯気の立ったコップが置かれた。
安物だと分かったそれを遠慮なく受け取り、一口。春先のまだ冷える身体には、一杯のお茶の温かさは染み渡るものがある。
向かいの椅子にかけた彼女の手にあるコップからは、珈琲の芳醇な香り。そんな、大人な空間と温かさに触れていると、ふと彼女が「はふぅ」と息を吐いた。
「スタバさんの第一号店も、建ってからもう何年も経つんですよね。ここらでは少し車で移動すれば出会えますが、鳥取県ともなれば、土地が土地なだけに、あちこちに置いても集客の見込みは少なそうですし。勿論、それを馬鹿にしている訳ではない、と明言はしておきますけどね」
「疑ってませんよ、別に」
地元民である僕ですら、思ったことだ。
世間からは祝われもしたが、同時に、こんなところに建てては赤字になってしまうのではないか、とも危惧した。
僕だけじゃあない。それは、当時よくつるんでいた友人も言っていたことだ。
都会に多く出店した方が、もっと儲けはあるのではないか――と、まぁそれも、ただの一般人である僕らの意見なのだけれど。
実際問題、経営というやつは、そう単純な話でもないだろうから。
「さて」
随分と間を空けてようやく二口目を飲んだ辺りで、彼女が手を合わせて言って来た。
何か、と視線で尋ねる。
「ここに来た理由を、そろそろお伺いしても?」
「――と、申しますと?」
「ご近所周りへの挨拶だという話でしたが、本日、ここのすぐ近場では引っ越しの賑わいはありませんでした。そう遠くでもないのでしょうが、噂の一つも立っていないということは、地区内ではないということの道理です。それに、仮に隣だったとして、一般家屋ならまだしも、こんな怪しい、それも家ではなくお店に、わざわざ足を運んでの挨拶など、しようと思い立つものでしょうか?」
「まぁ、それもそうなんですけど…」
別段、隠す理由もない。
僕は頭の中で一瞬間整理をすると、しかし確たる理由など全くなかったなと結論付けて口を開いた。
「正直に話しますと、何となくでして。どう言ったものやら悩みますが、助手を募集している旨の小さな看板を見たってところまでは覚えているんですけれど……気が付けば、中に」
「なるほど。お仕事志望でしたか」
「大層なものでは。大学入学を機に単身越して来たものですから、ただ漠然と、そう言えばバイトなんかも探さないとなー、なんて思っていた程度。何か、これがやりたいって訳でもなくて」
「あらあら、そうなんですか」
そう、一言置くと。
「では、ちょっとしたお悩み事を聞いていただきましょうか」
明るく、しかし瞳の奥に何やらよからぬものが見え隠れする笑顔で、そんなことを言った。