【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「私――私、こんなこと話しに来たんじゃない。話がないなら帰る。行こ、まこと」

 やや本気で膨れて立ち上がる葵に、流石にヤバいと見たのか遥さんが通せんぼ。
 チョコレートを手渡すと、一瞬にしてソファへと引き返していった。

「安い怒りだね」

「まことうるさい。それより、本題」

 突き刺さる一言に退く僕を無視して、早くも立ち直ってホワイトボードを転がしてきていた岸姉が指揮を執り始めた。
 掲げられた表題は『岸と高宮と時々少年』なる奇妙なもの。

「いや待ってください、まだ名乗ってもないから別に構いませんけど、扱いが——」

「大丈夫だよまこっちゃん、分かってるから!」

 一体何を。……まこっちゃん?

「遥さんから聞いたんでしょうけど、いきなりあだ名呼びとは」

「そうよ琴葉。ナマコ君に失礼でしょう」

「姉は姉で失礼が過ぎますけれど」

「そうね、ごめんなさい。言い間違えたわタバコくん」

「誰が肺に悪いって?」

「冗談よ。そう怒らないでちょうだい、まこと君」

「面倒なんで反論しなくても――って、あぁ、合ってるか」

 少しばかり言葉に詰まってしまった。
 ここに来てからこっち、僕のことを名前で呼ぶ人には未だ出会っていない。
 唯一僕のことを下の名前で呼ぶのは誰あろう葵なのだけれど、彼女は異性の女の子という気がしないと言うか、どちらかと言えば、世話を焼きたくなる妹であるかのよう。そう、妹なのだ。

 黙ったまま反論しない僕に意味深な笑みを送るだけ送って、岸姉は「さてと」と柏手を打った。

「表題変更。『岸と高宮と時々タバコ』よ」

「柏手の意味は何なんですか…!」

「冗談よ――って、こら琴葉、真に受けない」

 指摘した眼下では、そっとペンに手を伸ばす岸妹。
 軽くデコピンを見舞われると、「あいたっ」と額を押さえながら退散し、しれっと葵の真横に陣取って座った。

「近い」

「あん、お胸触らないから許して?」

「……チョコくれたら」

「いくらでも! ハルー!」

「了承するなら自分で持ち合わせてなさいよっと。ほれ、葵」

 呆れながらも、やはりと優しい遥さんは、投げてではあるがチョコを葵に寄越して嘆息。
 受け取った葵は葵で、幸せそうに頬張って岸妹の左腕ホールドを甘んじて受け入れていた。
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