【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 一気に沢山喋って喉が渇いたのか、ふらっと立ち上がって机の方へ。
 夕食時に使用していたコップを手に取り、傍らにあったピッチャーから既に生ぬるくなってしまっているお茶を注いで飲み、ふぅと溜息を漏らした。

「多分、いっぱい迷惑かける。常識知らずで世間知らずだから、出来れば一人で行きたかったんだけど。二人にも、きっと……兄貴から認められるくらいには勉強は出来るつもりだけど、敬語は苦手だから、さっきからいつも通りの話し方だし。気になってないわけ、ないと思う」

 葵は俯き、そう話した。

 遥さんが言っていたけれど、葵が自分から強く何かを願うことはないらしい。
 昔から祖父の状態のことを知っていて、残った祖父が親代わりになってくれて、悪化していく症状に、日頃から何かを強請ることもしなくて。
 長い年月を遠慮遠慮で過ごしてきたものだから、その意思が強く根付き、部活すらも進学に必要ないと見て中学高校と入っていないと言っていた。

 星屋に呼び出された時、躊躇うことなくオムライスを注文したこと。大学の帰りには、強く遠慮をしたこと。その対照的な二つの事柄は、遠慮する相手であった祖父がいなくなった後、兄である遥さんとはあまりずっと長い時間を一緒の部屋で過ごしている訳ではないだけに、遠慮するものか、反動で甘えるものか、内側の方で決めあぐねているのだそうだ。

 言葉もそう。

 祖父のことを一番に考える日ばかりで、広く世間を知らず、敬語タメ語の境界もまちまち。
 葵自身も、それは気になっていることみたいだけれど、それよりも増して祖父のこと、祖父のことだから。

 やがて、葵がお茶を飲み終える。
 それと同時に誠二さんが口を開いた。

「辛かったろう、なんて簡単には言わん」

 呟くように一言。
 次いで葵の目を正面に捉えると、

「だが、なら尚更のこと何の遠慮もいらん。存分に頼ってくれていい。その目的を果たすために、私も母さんも努力を惜しまんと約束しよう。勿論、娘たちもね」

 葵は目を見開いて固まった。
 滑り落ちたコップから僅かに滴るお茶の一滴二滴には目もくれず、ただ誠二さんと向かい合う。

「君とは今日が初対面だが、素直で良い子だと私は思う。神様の巡りあわせに感謝だな」

「え…と」

「明日はよろしく、高宮葵さん。せっかくだったら、明るく楽しく、良い思い出の旅にしようじゃないか」

 再び差し伸べられる手。
 葵はそれを強く握って、薄っすらとではあったけれど、恥ずかしそうに笑って見せた。
 短く一言だけ放って以降黙って見ていたお母様は、目を伏せていた。

 本当に、なんて……なんて、温かい家庭なのだろう。葵の表情に涙の色すらも伺えそうだ。
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