【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「あと一枚よ。終わらせちゃいましょうか」

「え……? あ、は、はい…!」

 言われて気が付けば、デザートに出されたリンゴを載せていた皿一枚だけがシンクに残っていた。
 急いで、しかし雑にならないように洗って手渡す。

「ありがとう」

「いえ、このくらいは……お母様には、わざわざ手料理まで振舞っていただいたこともありますし」

 そう返すと、

「普通に下の名前で呼んでくれてもいいのですよ? 何だか落ち着かないわ」

「下の――って、そう言えばお名前、まだ聞いてませんでした」

「あら、そういえばそうでしたね。コホン、では改めて」

 わざとらしい咳払いを残して、拭き終えた皿を置いて向かい合う。

「紗織と申します。趣味は読書と音楽鑑賞、時々お散歩。よろしくね」

「よ、よろしくお願いいたします」

 遅ればせながらの自己紹介を終えて、その瞬間から呼び名は”紗織さん”に決まった。
 そうして諸々を終えた頃、時刻は既に十時前。
 そろそろ風呂でもどうかとリビングを後にしようとした時だった。瞬間、視界に飛び込んで来たのは、目元を涙で濡らす姉妹二人。
 葵に風呂を勧めようとやって来た所、僅かに洩れ聞こえた室内の会話に入るタイミングが掴めぬ内、全て聞いてしまったのだそうだ。

 しかし、

「なんで、二人が泣いてるの?」

 尋ねたのは葵。もっともな疑問だった。
 嗚咽すら交ぜながら涙を流す二人。

「あ、えっと…」

「その…」

 すぐに言葉が出てこない年上を、葵は近寄ってそっと両腕の中に収めた。

「そういえば、話してなかった。心配、かけた?」

 刹那、二人揃って糸の切れた人形のように膝から崩れた。

「事情知ってたら、もっとちゃんと色々と……大学で『帰る』って怒りだした理由、詳しくは知らなかったから…」

「別にいい」

「よくないよ…! 私、好き勝手盛り上がって、怒らせちゃったわけだし…」

「私も、至らぬ配慮だったわ…」

 感情を、思いを、素直に言葉で吐露する姉妹。

「あ、りがとう……うん。ありがとう、乙葉、琴葉」

 葵も、正直な言葉しか出てこない。
 せっかくのそんないい雰囲気も、「今なら…」と泣きながらに胸へと伸ばされた乙葉さんの手を避ける葵の華麗なステップによって、見事、悪くない台無しに終わった。

 それから少しして遥さんも戻って来ると、早くも二十歳を迎えていた遥さんの小さな驕りで、岸家と遥さんはアルコール類を、僕と葵はジュースを飲みながら、明日の旅路についての話合いが開始された。
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