【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
「すー…すー…」

 僕に充てられた布団全域を占領し、子どものように幸せそうな顔で寝息を立てる葵。
 そしてここは、その葵が使わせてもらっている双子姉妹の部屋ではなく、僕の借りた空き部屋だ。
 大の男二人が同じ部屋というのもアレだからと、遥さんはまた更に別の部屋だ。

 先んじて眠ってしまった姉妹とは対称に、中々寝付けず、初めの内はお手洗いやスマホやらで時間を潰していたが、何度も出入りをするのも失礼だからと、葵なりに少しばかり気を遣って、しばらくリビングで過ごしていたのだが、何をするわけでもない自分の家と全く異なる環境にソワソワして、ついぞ耐え切れなくなって、唯一余った話し相手である僕の元へやってきたというわけだ。
 環境が違うだけで落ち着かないからと話し相手を求めて来たというのに、こいつは。

 僕の存在全否定と言わんばかりに、ぐっすりと眠ってしまっている。

「すー…うぅ…」

 無防備にくしゃっとなった髪に、何となく手が伸びてしまった刹那、葵の顔が、まるで幽霊や尋常ならざるものにでも直面したかのように歪んだ。
 自然、僕は手を収めて葵の様子を伺った。
 両腕を枕の代わりにして横になって、背中をやや丸めて足は胸元に寄せている。
 髪が乱れているのは、やって来て手短に説明をした矢先、半ば倒れるように躊躇いなくこの体勢に移行したままだからだ。

 食事をした後で眠くなったのか、あるいは話し疲れて眠くなったのか。
 いずれにしても、相当深い眠りについてしまっている。

 これは、目覚めた二人が呼びに来ようとも、そう簡単には起きてくれそうにないと踏んで、せめて髪くらいは整えておいてやろうと、断念した行為を再び実行する。
 艶やかな髪に触れた瞬間、葵の身体がビクンと震えた。
 不味かっただろうかとも思ったが、すぐに安心したような寝顔に戻って、身を委ねるように寝息を立て始めた。

 触れたままだった手の平で、長い髪をなぞっていく。

「ん……おじい、ちゃん…」

 呟くと同時、葵の瞼に薄っすらと雫が浮かんだ。
 頭が揺れて零れてしまわないようにと、それ以上撫でるのを止めて手を離したが、雫は馬鹿正直に重力に従い、頬を伝って布団に溶けた。
< 63 / 98 >

この作品をシェア

pagetop