【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 ――そう、息巻いてみたはいいものの。

 通潤橋までは程遠い。
 それを悟ると、急激に恥ずかしさやら何やらが込み上げてきて、まだ春は始めの肌寒い日だというのに、体温が恐ろしいほど速く上がっていくのが分かった。
 発狂して虎にでもなってしまいそうだ。

 と、馬鹿な話をしていると。

 はやる気持ちを抑えきれないのか、葵の速度が少しずつ上がっていく。
 焦って怪我でもしたらと、その小さい後ろ姿を追って僕も速度を上げようとするのだが、

「ん…?」

 不意に、ちょんちょんと肩を叩かれるのを感じて振り返ると、僕の前を歩いていた筈の桐島さんが、いつの間にか背後から手を伸ばしていた。

「びっくりした……どうかしました?」

 という問いに桐島さんの答えは「ちょっと」と。

「厄介なことになるかもしれません」

「厄介?」

「えぇ。分かりませんか、匂い」

「匂い――あー、言われてみれば、梅雨の日のような…って、まさか…!」

「はい、雨です。あと四、五分といったところでしょうか。雨傘などは持ち合わせてはいませんか?」

「そんな――よ、予報はゼロパーセントだった筈じゃ…!」

 降水確率は、明日まで含めて、ここら一体ゼロパーセントだった筈だ。
 山の天気は変わりやすいと言っても、ここは山の中腹でも、まして山頂でもない。

「その筈なのですけれど、この匂いは明らかに、雨のものです」

 そう断言する桐島さんの目は、鋭い。
 僕にもそれが感じ取れているだけに、それを認めたくはなくても、否定することが出来ない。

 もしかすると、葵が速度を上げたのも、そういうことだったのかも知れない。

「葵さんには申し訳ありませんが、今日は――」

「そんな…! あれだけ準備もして、楽しみにしてて…! それに――それに…」

「何もまたの機会にと言っている訳ではありません。明日がありますから」

 意識の及ばない夢の中でさえも、その思い出に触れて涙を流していたのに。
 あれだけ強く思っていて、あれだけ触れたいと願っていても、高々自然の気まぐれでそれが阻まれてしまうなんて。

 今ほど強く、神様や運命というやつを呪ったことはない。

「どうかされましたか?」

 無意識の内に立ち止まっていた僕に、二歩先から桐島さんが呼びかける。

「――――何でもありません」
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