【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 風邪なんて、学校なんてと、そう思うには十分過ぎる理由だった。
 ただ時間があるから、ただバイト代があるから、ただ会いたいからではなかった。
 この日に合わせたのには理由があった。

 今日でなければダメだったのだ。
 少し後ろの方では、遥さんが前髪で影を落としている。

「ここまで約三十分。四キロといったところでしょうか。走ればすぐ戻れます」

「神前さん?」

 振り返った僕に、何を言っているのかといった様子で桐島さんが僕の名前を呼んだ。
 それは、多分無茶だとは思う。こんな道では、どんな災害に見舞われるとも分かったものではない。

 でも、それでも。

「葵、携帯貸して」

「うん。はい、これ」

 理由も聞かず、正直に応じる葵。
 何をするかは察してくれているようだった。

「壊しちゃまずい。僕のと二つ、持って戻ってください」

「断ります。貴方達も来なさい」

 初めて聴く、命令口調。
 やや気圧されもしたが、今更その決意が揺らぐ筈はなかった。
 葵も隣で、今か今か、早く早くと急かすように僕の方をちらちらと確認してくる。

 分かってるさ。僕は戻らない。

 ここに至るまで、はっきり言って僕は何の役にも立ってはいない。猫を助けたのだって、食事をご馳走したのだって、一緒に連れ立って大学まで歩いたのだって、僕でなくとも良かった訳だし、その場に誰もいなくとも良かった。
 それでも葵の為になりたいと思って、流れとは言え一緒に行くことを決めて、今ここにいるのだ。

 まだ、何も出来ちゃいないじゃないか。

「葵の――葵の願いを叶えたら、戻ります」
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