【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 そう答えても、桐島さんの目は揺れない。
 それはまるで、子を叱りつけ、言いつける母親のよう。
 そう見えてしまったものだから、僕は続けざまにこう言った。

「僕は大学生ですから。葵をかばって風邪をひいても、それほど差し支えない。単位の一つや二つ、くれてやっても構いません」

 馬鹿者もいいところだった。
 これではただ、駄々を捏ねる幼子の図。
 ものは言いよう。そんな、便利な言葉に頼っているだけの我儘だ。

「あの――」

 ふと、僕ら二人の側に立つ、もう一つの影。
 誰あろう、遥さんだ。

「俺からも頼みます。じいちゃんは葵にとって、早くに死んだ親の代わりだったんだ。親の心に会いに行くのに、雨なんかに邪魔をされるなんて、たまったものじゃない」

「兄貴…」

 遥さんまで出て来て、ようやく桐島さんの顔色が変わった。
 少しばかり柔らかくなって、次第に困ったような表情をして、

「はぁ」

 それが分かっているから、桐島さんはきっと、溜息を吐いて観念したんだ。
 最初から、そんな気なんてなかったくせに。

「構うに決まっているでしょう、まったく。傘ならちゃんとあります。使ってください」

 バッグの端から覗いていた持ち手を引き、取り出した傘四本。
 やや大きいサイズのものを親二人に、中くらいのものを姉妹、そして自身と遥さんで持ち、

「一度戻って、車で通潤橋へ向かいます」

 一等大きな傘を僕らに手渡した。

「ありがとうございます」

 準備があるからと、桐島さんは皆を連れて一度戻ってから後を追ってくると言う。

「悪いな、葵。男手は多い方が良い、俺は皆の方を手伝うから――まこと、葵を頼むな」

「はい…!」

 互いに背を向け歩き出して、程なくして一粒、一粒と雨が降って来た。
 橋まではせめて車にあやかれば良かったと気付いたのは、少し後になってからだ。
 いや――いつ止むかも分からない、車の方でも何が起こるか分からない以上は、正しい選択だったと信じよう。

 雨露を凌ぐにしても、これだけ強く大きく、また横殴りな雨を前に、傘一つはあまり意味を成さなかった。
 無言で僕に押し付けて葵の肩の方が濡れるものだから、僕はついぞ持っていた傘を渡してそこから出た。

 気を遣われるのが何だか嫌で、気を遣わせてしまっている自分が嫌で、良い香りがして、肩が触れあうのが恥ずかしくて。何だかむず痒くなってきて。
 葵さえ風邪をひかなければ良かった。

 十分。
 二十分。

 歩けど歩けど変わり映えのしない景色は、自然と僕らを黙らせる。
 二つの足音、荒めの吐息、雨音だけが耳に届く。
 そんな中でふと、葵が僕の名前を呼んだ。

 立ち止まって、もう一度。

「私……まこと、好き」

 変わらぬ真顔の中に、少しばかり見え隠れた緊張の色。

「――風邪をひかずに戻れたら、もう一回聞いてあげるから。今はただ、おじいちゃんのことだけ考えて」

 まだ、依頼は達成出来ていない。出来るかも分からない。
 だからと、誤魔化すわけではなくそう言うと、

「……やだ」

 少しの間を置いてから口を尖らせて呟き、恥ずかしそうに傘で隠した。
 通潤橋まで、あと半分と少し。

 そこまで行ってしまえば、岸家族や桐島さんが何とかしてくれるはずだ。
 かっこよく言い切っておいて、頼るべくはしっかり頼る。

 僕一人ではとても、守りきれないから。
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