【完】桐島藍子の記憶探訪 Act1.春
 二十分くらいそうしていた頃だろうか。

 葵が椅子を引いて僕の横に来て、黙ったままでその場に留まった。
 僕らの正面には、水を流す通潤橋が構えている。
 すぐそこにあるのに、触れられない。
 葵は何も話しかけてはこないので、僕も黙ってただ存在しているだけ。

 空気が美味しい。
 風が心地いい。
 葉の擦れる音が耳に楽しい。

 そんな感覚すら覚えてしまうくらい、ゆったりと、ただ時間だけが過ぎていく。

「うっ…うぅ…」

 不意に、小さな嗚咽が耳を打った。
 それは右、葵が陣取っている方からだ。
 それは次第に、振り向く必要もないくらい、明らかに泣いていると分かるよう耳に届いて、僕はどうにも言葉の掛けようが見つからず、それを受け止めるばかり。
 アクションを起こさない僕に、しかし葵もそれ以上何も言わないで、ただたまに鼻水をすする音だけ混ざって聞こえて。
 それ以上酷くも、逆に弱くもならない状態が続くと、やがて葵は僕の方へ倒れて頭を預けてきた。

 泣きすぎて、顔に力を入れ過ぎて、嗚咽を漏らし過ぎて、頭も痛くなったようで力がない。
 重力に負けたかのようにふらりと倒れてきた葵を受け止めて、自然、そのまま膝に持ってきた。
 くしゃくしゃになった髪に、指先で櫛を入れてやる。

 華奢な身体に見合った、細い首筋から伸びた小さな頭部は、先日助けた子猫よりも軽く思える。
 これで本当に人間の頭なのかと、不安にすらなるくらいだ。

「うっ……おじいちゃん…」

 目元を伝って零れた涙がズボンに溶ける。
 染みて伝わった肌は冷たいけれど、それは確かに人の温かみを帯びている。
 それだけで、この休憩が終わった後のやる気にも火が点きそうだ。
そう、軽く意気込みかけていたところで、つい先ほど桐島さんから受け取っていた葵のスマホが鳴った。
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