明日花咲くカタリーネ
21、それは鎖のように
その男のところへたどり着くまでの時間は恐ろしく長く感じられた。さりげなく近づくために飲み物を持っていたせいで、途中で他の客人たちに引きとめられるのだ。
でも、男が話し込んでいてくれたおかげで、時間はかかったけれど、何とか近づくことができた。
そして、改めて近くで見て確信した。やっぱり、あの男だと。
アダム・グラマンなどと名乗って金持ちの中に混じっているこの男は、かつてわたしの母に借金を背負わせて逃げた、あの男だ。
間違うはずがない。絶対に忘れないとこの目に焼き付けたのだから。
母は愚かにもこの男を愛していて、この男のためを思って借金を返し続けたのだ。そして病を得て死んだ。
母が必死になって働いている間は一度も会いに来なかったくせに、母が亡くなってからこの男はやっとわたしたちの家にやって来た。そしてわたしが母が亡くなった事実を告げると、「死んだのか。早かったなぁ」とだけ言ったのだ。
その上わたしを見て、「お前はまだ売れないなぁ」と言ったのだ。
そのときの狡く厭らしい顔と、紳士ぶって談笑している目の前の男の顔は完全に一緒だ。
はっきりそう悟ると、腹の底から何かがせり上がって来るような、そんな不快感があった。
「……アンドレ、ごめんなさい。人酔いしてしまったから少し風に当たってくる。すぐに戻るから」
「え? 大丈夫なの? わかった。ゆっくりでいいから」
叫び出したい気持ちを堪えるために、わたしはそうアンドレに告げて会場をあとにした。
とにかく今は落ち着かないと。落ち着いて、旦那様に知らせないと。あいつは詐欺師だ。絶対に手を組んではいけない。
でも、そんな大切なことを伝えるには、わたしは今冷静じゃなさすぎる。
外に出て、へたり込みそうになる体を叱咤して何とか態勢を保つ。深呼吸を何度か繰り返したけれど、それでもやっぱり完全に落ち着くことはできなかった。
度を超えた怒りは、吐き気をもよおすものらしい。
会ったらどうしてやろうなんて考えたことはなかったけれど、絶対に忘れてなるものかとは思っていた。それがまさか、こんな形で再会するなんて誰が思うだろう。
できれば、一生会いたくなかった。忘れないと目に焼きつけたくせに、わたしはあの男に会うことをどこかで恐れていたのだ。
「そこのお嬢さん……大丈夫かい?」
「……!」
後ろから探るようにかけられた声に、わたしはびくりとした。ライトアップされているわけではないから、庭へは客人は誰も来ないだろうと思っていたのに。
吐き気に震える今の状態を悟られないように慎重に振り返ると、そこにいたのは思いもかけない人物だった。
「……アルノー・ギースラー」
「どうしてその名前を……?」
そこには、母を騙して借金を負わせた男、アルノー・ギースラーがいた。名前を変え、アダム・グラマンなどと名乗ってはいるけれど、その正体はただの薄汚い詐欺師だ。
「あんたは忘れたかもしれないけれど、わたしは絶対に忘れないよ。あんたの顔も、名前も」
「そんな……まさか……お前、リディの娘か?」
「……そうよ」
信じられないことに、男はわたしのことを思い出した。正確には、母のことを。
アルノー・ギースラーは美形というわけではないけれど、独特の色気のある男だ。だからわたしの母のように、騙された女はそれなりにいるだろう。そんなたくさんの自分が騙した女のうちの一人なんてきっと覚えていないと思ったのに、男は似ていないわたしの顔を見て、母のことを思い出したのだ。
「はは。そうかそうか。何だっけ……カタリーネだったっけか? でっかくなったなぁ。ああ、でも、体は全くリディに似なかったんだな。あいつは良い女だったよ。美人だし、良い体をしてたからなぁ」
「……」
アルノーはわたしの体を舐め回すように見ながら、下品な笑みを浮かべる。会場で見たときの紳士然とした様子は微塵もない。
「俺のことをジッと見てる女中がいたから気になって追いかけてみたら……何だ、お前、こんなところにいるってことは、うまいこと金持ちの家で働けてるんだなぁ。頑張って、ここんちの息子騙くらかせよ? まだ坊ちゃんは若くて経験が浅いから、他の女にはできないようなことをしてやれば……コロっといくぜ?」
何がおかしいのか、下品な仕草をわたしに見せつけながらアルノーは笑っていた。吐き気がする。ここがエッフェンベルグ家の庭ではなく路地裏なら、わたしは間違いなくこの男を害していただろう。
「何だよ。怖い顔しちゃって。金持ちの家でわざわざ女中なんてしてるってことは、お前も狙ってるんだろ? 正妻になれなくても愛妾の立場を獲得すれば、お前の未来は明るいぜ? 何なら、どんなことをしてやれば男を虜にできるか俺が仕込んでやろうか?」
「触るな!」
馴れ馴れしく伸ばされた男の手を、わたしははたき落とした。本当なら、炎魔術で消し炭にしてやりたいけれど、そこはグッと堪えた。
どれだけ睨みつけても、アルノーはにやけたままわたしから目をそらさなかった。見られた場所から穢れてズブズブと腐っていってしまうのではないかという感じがする。それほどまでに、わたしはこの男を嫌悪していた。
「冗談だって。さすがに俺も、自分の娘を抱くほど下衆じゃねぇよ」
「ーー⁉︎」
アルノーの言葉にわたしは自分の耳を疑った。
自分の娘……? わたしは、この薄汚い男の子供だということ?
「は? お前まさか知らなかったのか?」
アルノーは心底驚いたという顔をした。そして、馬鹿にするように顔を歪めて笑った。
「……何を?」
「俺、お前の父親だぜ? つっても、まぁ出来ちまったってだけで作ったわけじゃねぇけど。リディは俺が好きだったから、それでもいいって産んだんだ」
背筋がぞわりとした。内臓がひっくり返ってしまいそうな、体の内側からふつふつと湧き上がる感覚が止まらない。
(母をゴミのように扱ったこの男が、わたしの父親? わたしの体には、この薄汚い男の血が流れているということなの?)
そんなことを考えたら、もう息をするのがやっとだった。気を抜けば、この体はぐらりと倒れてしまうだろう。
「……お前、何も聞かされてなかったんだな。あいつはな、俺が『借金を返したらお前たちと一緒に暮らせる』って言ったらコロっと信じて必死で働いたんだよ。娘のお前に父親ってもんを与えてやるためにさ」
何がおかしいというのだろう。この男は、何を言っているのだろう。
耳が、頭が、この男の声を拒絶する。
それでも、アルノーは話すのをやめない。
「ここでこうして会ったのも何かの縁だ。これからは『お父さん』って呼んでくれよ。せいぜいこの体で、リディのように俺を楽させてくれよな? 俺は、お前の『お父さん』なんだからな」
倒れそうになる体を支えるように、アルノーはわたしを後ろから抱きすくめた。そして、スカートの上から内腿に指を這わせる。その行為が意味するところがわかって、わたしはもう吐き気を堪えることができなかった。
「きったねぇなぁ。……吐くほど俺が嫌いか? 俺が憎いか? でもなぁ、俺とお前が親子っていうのは変えられない事実なんだよ。俺を嫌えば嫌うほど、それは自分にはね返るぞ?」
取り出したハンカチでわたしの口元を拭いながら、アルノーはどこまでも楽しげに笑っていた。わたしの目を覗き込むその目は、確かにわたしと同じ色をしている。奥様が綺麗だと褒めてくれた琥珀色が、目の前の憎い顔にもあるのだ。
「……笑っていられるのも今のうちだ。お前のことを、旦那様に話してやる」
「ほぉ。話してみればいい。お前のような使用人の小娘と、貴族の後ろ盾を持つ俺。商人であるエッフェンベルグ氏はどちらを信用するかな? それに、俺のことを暴けば自分の立場も危うくなるんだぞ? でも、おとなしくしていればお前は職を失わずにすむ。……賢くなることだな、俺の娘らしく」
言うだけ言って気が済んだのか、アルノーは笑いながら屋敷に戻っていった。
姿が見えなくなったのを確認して、わたしはしゃがみこんでもう一度吐いた。吐いても吐いても、湧き上がる不快感が収まらない。気持ちが悪過ぎて、涙まで滲んできた。
苦しくて、体に力が入らなくて、わたしはその場にへたり込んでしまった。
「カティ! カティ、どこにいる?」
もう消えてしまいたいーーそんなふうに思って夜風に吹かれる自分の体を抱きしめていたら、わたしを呼ぶ聞き慣れた声がした。
でも、男が話し込んでいてくれたおかげで、時間はかかったけれど、何とか近づくことができた。
そして、改めて近くで見て確信した。やっぱり、あの男だと。
アダム・グラマンなどと名乗って金持ちの中に混じっているこの男は、かつてわたしの母に借金を背負わせて逃げた、あの男だ。
間違うはずがない。絶対に忘れないとこの目に焼き付けたのだから。
母は愚かにもこの男を愛していて、この男のためを思って借金を返し続けたのだ。そして病を得て死んだ。
母が必死になって働いている間は一度も会いに来なかったくせに、母が亡くなってからこの男はやっとわたしたちの家にやって来た。そしてわたしが母が亡くなった事実を告げると、「死んだのか。早かったなぁ」とだけ言ったのだ。
その上わたしを見て、「お前はまだ売れないなぁ」と言ったのだ。
そのときの狡く厭らしい顔と、紳士ぶって談笑している目の前の男の顔は完全に一緒だ。
はっきりそう悟ると、腹の底から何かがせり上がって来るような、そんな不快感があった。
「……アンドレ、ごめんなさい。人酔いしてしまったから少し風に当たってくる。すぐに戻るから」
「え? 大丈夫なの? わかった。ゆっくりでいいから」
叫び出したい気持ちを堪えるために、わたしはそうアンドレに告げて会場をあとにした。
とにかく今は落ち着かないと。落ち着いて、旦那様に知らせないと。あいつは詐欺師だ。絶対に手を組んではいけない。
でも、そんな大切なことを伝えるには、わたしは今冷静じゃなさすぎる。
外に出て、へたり込みそうになる体を叱咤して何とか態勢を保つ。深呼吸を何度か繰り返したけれど、それでもやっぱり完全に落ち着くことはできなかった。
度を超えた怒りは、吐き気をもよおすものらしい。
会ったらどうしてやろうなんて考えたことはなかったけれど、絶対に忘れてなるものかとは思っていた。それがまさか、こんな形で再会するなんて誰が思うだろう。
できれば、一生会いたくなかった。忘れないと目に焼きつけたくせに、わたしはあの男に会うことをどこかで恐れていたのだ。
「そこのお嬢さん……大丈夫かい?」
「……!」
後ろから探るようにかけられた声に、わたしはびくりとした。ライトアップされているわけではないから、庭へは客人は誰も来ないだろうと思っていたのに。
吐き気に震える今の状態を悟られないように慎重に振り返ると、そこにいたのは思いもかけない人物だった。
「……アルノー・ギースラー」
「どうしてその名前を……?」
そこには、母を騙して借金を負わせた男、アルノー・ギースラーがいた。名前を変え、アダム・グラマンなどと名乗ってはいるけれど、その正体はただの薄汚い詐欺師だ。
「あんたは忘れたかもしれないけれど、わたしは絶対に忘れないよ。あんたの顔も、名前も」
「そんな……まさか……お前、リディの娘か?」
「……そうよ」
信じられないことに、男はわたしのことを思い出した。正確には、母のことを。
アルノー・ギースラーは美形というわけではないけれど、独特の色気のある男だ。だからわたしの母のように、騙された女はそれなりにいるだろう。そんなたくさんの自分が騙した女のうちの一人なんてきっと覚えていないと思ったのに、男は似ていないわたしの顔を見て、母のことを思い出したのだ。
「はは。そうかそうか。何だっけ……カタリーネだったっけか? でっかくなったなぁ。ああ、でも、体は全くリディに似なかったんだな。あいつは良い女だったよ。美人だし、良い体をしてたからなぁ」
「……」
アルノーはわたしの体を舐め回すように見ながら、下品な笑みを浮かべる。会場で見たときの紳士然とした様子は微塵もない。
「俺のことをジッと見てる女中がいたから気になって追いかけてみたら……何だ、お前、こんなところにいるってことは、うまいこと金持ちの家で働けてるんだなぁ。頑張って、ここんちの息子騙くらかせよ? まだ坊ちゃんは若くて経験が浅いから、他の女にはできないようなことをしてやれば……コロっといくぜ?」
何がおかしいのか、下品な仕草をわたしに見せつけながらアルノーは笑っていた。吐き気がする。ここがエッフェンベルグ家の庭ではなく路地裏なら、わたしは間違いなくこの男を害していただろう。
「何だよ。怖い顔しちゃって。金持ちの家でわざわざ女中なんてしてるってことは、お前も狙ってるんだろ? 正妻になれなくても愛妾の立場を獲得すれば、お前の未来は明るいぜ? 何なら、どんなことをしてやれば男を虜にできるか俺が仕込んでやろうか?」
「触るな!」
馴れ馴れしく伸ばされた男の手を、わたしははたき落とした。本当なら、炎魔術で消し炭にしてやりたいけれど、そこはグッと堪えた。
どれだけ睨みつけても、アルノーはにやけたままわたしから目をそらさなかった。見られた場所から穢れてズブズブと腐っていってしまうのではないかという感じがする。それほどまでに、わたしはこの男を嫌悪していた。
「冗談だって。さすがに俺も、自分の娘を抱くほど下衆じゃねぇよ」
「ーー⁉︎」
アルノーの言葉にわたしは自分の耳を疑った。
自分の娘……? わたしは、この薄汚い男の子供だということ?
「は? お前まさか知らなかったのか?」
アルノーは心底驚いたという顔をした。そして、馬鹿にするように顔を歪めて笑った。
「……何を?」
「俺、お前の父親だぜ? つっても、まぁ出来ちまったってだけで作ったわけじゃねぇけど。リディは俺が好きだったから、それでもいいって産んだんだ」
背筋がぞわりとした。内臓がひっくり返ってしまいそうな、体の内側からふつふつと湧き上がる感覚が止まらない。
(母をゴミのように扱ったこの男が、わたしの父親? わたしの体には、この薄汚い男の血が流れているということなの?)
そんなことを考えたら、もう息をするのがやっとだった。気を抜けば、この体はぐらりと倒れてしまうだろう。
「……お前、何も聞かされてなかったんだな。あいつはな、俺が『借金を返したらお前たちと一緒に暮らせる』って言ったらコロっと信じて必死で働いたんだよ。娘のお前に父親ってもんを与えてやるためにさ」
何がおかしいというのだろう。この男は、何を言っているのだろう。
耳が、頭が、この男の声を拒絶する。
それでも、アルノーは話すのをやめない。
「ここでこうして会ったのも何かの縁だ。これからは『お父さん』って呼んでくれよ。せいぜいこの体で、リディのように俺を楽させてくれよな? 俺は、お前の『お父さん』なんだからな」
倒れそうになる体を支えるように、アルノーはわたしを後ろから抱きすくめた。そして、スカートの上から内腿に指を這わせる。その行為が意味するところがわかって、わたしはもう吐き気を堪えることができなかった。
「きったねぇなぁ。……吐くほど俺が嫌いか? 俺が憎いか? でもなぁ、俺とお前が親子っていうのは変えられない事実なんだよ。俺を嫌えば嫌うほど、それは自分にはね返るぞ?」
取り出したハンカチでわたしの口元を拭いながら、アルノーはどこまでも楽しげに笑っていた。わたしの目を覗き込むその目は、確かにわたしと同じ色をしている。奥様が綺麗だと褒めてくれた琥珀色が、目の前の憎い顔にもあるのだ。
「……笑っていられるのも今のうちだ。お前のことを、旦那様に話してやる」
「ほぉ。話してみればいい。お前のような使用人の小娘と、貴族の後ろ盾を持つ俺。商人であるエッフェンベルグ氏はどちらを信用するかな? それに、俺のことを暴けば自分の立場も危うくなるんだぞ? でも、おとなしくしていればお前は職を失わずにすむ。……賢くなることだな、俺の娘らしく」
言うだけ言って気が済んだのか、アルノーは笑いながら屋敷に戻っていった。
姿が見えなくなったのを確認して、わたしはしゃがみこんでもう一度吐いた。吐いても吐いても、湧き上がる不快感が収まらない。気持ちが悪過ぎて、涙まで滲んできた。
苦しくて、体に力が入らなくて、わたしはその場にへたり込んでしまった。
「カティ! カティ、どこにいる?」
もう消えてしまいたいーーそんなふうに思って夜風に吹かれる自分の体を抱きしめていたら、わたしを呼ぶ聞き慣れた声がした。